2014年07月11日

多重カギカッコや擬音をめぐる話

 あっ、僕も書こうと思ってたら、友野に先越されちゃった。

多重カギ括弧は20年以上前から存在していた~友野詳氏の回想録~
http://togetter.com/li/687745

 きっかけはこういうのだった。

ラノベでカギ括弧を重ねて使うのはズルなのか技法なのか
http://togetter.com/li/686586

 あのー、僕使ってますけど、何か?


 亜季は蓮也の方を振り返った。
「もしかして、蓮也くんも?」
「うん……」
「隙間に入れるの?」
「「「「「入れない!」」」」」
 環夜以外の五人がいっせいにツッコんだ。
――『妖魔夜行 闇への第一歩』

 この手法、複数の人間が同時に同じ言葉を発するのを表現するのに便利なので、僕もたまに使うことがある。
 友野詳によると、誰が発明したのかは分からないけど、〈コクーンワールド〉の頃から使っているという。もう20年以上前だ。

 他にも僕が主にライトノベルから借用した手法はいくつもある。
 たとえば、会話の途中で、「?」とか「!」とか「…………」とか、台詞を書かずに疑問符のみ、感嘆符のみ、あるいは三点リーダのみを書く手法。これ、非ラノベでも使うけど、やっぱりラノベでよく使われる印象がある。 ただ、どれぐらい前からあるのかは、僕もよく分からない。
 たとえば、いちいち“彼は息を呑んだ”とか書くより、「!」と書くだけで、息を呑んだことが的確に表現できる。また、そのキャラが言葉は発していないけど疑問を感じているのが表情に出ている、という場合は「?」。あるいは会話の途中でちょっとだけ沈黙した場合とかは「…………」が有効。


「うん。実は最初からずっともやもやしてるところがあるんだ。それも二箇所」
「二箇所?」
「ひとつは『七地蔵島殺人事件』というタイトルそのもの」
「?」
――『僕の光輝く世界』

「だって……だって……」
 亜季は顔をくしゃくしゃにして言った。
「あたし……友達、一人もいなかったんだもん!」
「…………」
――『妖魔夜行 闇への第一歩』

 他にも、これもたぶんラノベ起源じゃないかと思うんだけど(間違ってたらごめん)、場面転換でもないのに、ある行の前後を一行開けるという手法もある。

「待って! 行かないで! 帰らないで! お願い!」
 そう絶叫すると、彼女はふらふらと廊下に膝をつき、手をついた。額を床にこすりつけるようにして土下座し、心の中の想いを衝動的に絞り出す。

「あ、あたしとセックスしてください!!」

(うわーっ、何言ってんだ、あたしーっ!?)
 亜季は自分で自分の言葉に愕然となった。
――『妖魔夜行 闇への第一歩』

 この場合、「あ、あたしとセックスしてください!!」を目立たせたくて、前後を空白にしているわけである。
 ちなみに、僕がこれを最初に使ったのは、『詩羽のいる街』だった。第一話の語り手、陽生の台詞。


「あの……気になってたんだけど……」
「何?」
 僕はためらった。あまりにも常識はずれな考えだったからだ。だが、これまでの彼女の行動からすると、そう思えてならない。だから思いきって質問した。

「もしかして詩羽さん、お金持ってないの?」

「そうよ」彼女はあっさり認めた。「ようやく気がついた?」
「財布を忘れてきたとか、そういうんじゃなく?」
「うん。持ってない。ここ六年ばかり、紙幣にも硬貨にもまったく触ったことがない」
――『詩羽のいる街』

 これは「お金持ってないの?」をどうしても目立たせたくてやった。目立たせるなら、字をゴシック体にするとか傍点振るとかいう手法もあるんじゃないかと思われるかもしれないが、それをやると、その言葉が「強い」感じがしてしまう。話者が強い口調で言っているかのような印象になるのだ。
 ここは「もしかして詩羽さん、お金持ってないの?」という言葉が、さりげなく発せられたことを表現したかった。でも、読者に対しては目立たせたい。そこで迷った末、前後を一行空けることにした。
 そう決心したものの、かなり心理的抵抗があった。僕は古いタイプの作家なので、「一行空けるのは場面転換や時間経過を表現する場合か、手紙などの文面を挿入する場合」「必要もなしに改行して行数を稼ぐのはアンフェア」という固定観念から、なかなか脱却できなかったのだ。
 しかし、実際にやってみると、ここはこの手法を使ってやはり正解だったと思える。

 あと、そこだけ活字を大きくするという手法もある。ただ、これはギャグになっちゃうんで、あまりシリアスな作品では使いたくない。先の「あ、あたしとセックスしてください!!」も、笑える台詞ではあるんだけど、作品全体としてギャグではないので、迷った末、字を大きくするのは避けた。
 逆に、ギャグであれば字を大きくするのも厭わない。『ギャラクシー・トリッパー美葉』や『地球最強姉妹キャンディ』では何度も使ったな。
 ちなみに、活字を大きくすることを最初に思いついたのも誰かは不明だけど、僕が最初に見たのは1970年代、横田順彌さんの小説だったと思う。原稿枚数を稼ごうとして、登場人物が台詞を勝手に変なところで改行したり、字をどんどん大きくしてゆくという、メタなギャグが秀逸だった。

 擬音の多用というも、しばしば槍玉に挙げられる話題である。
 僕も戦闘シーンで擬音を多用したことがある。


 ピン、ポロロロン。ポロロン、ロン。
 突然、戦場にはまったく場ちがいな、のどかな音楽がひびいた。知絵はそれが携帯電話の着メロだと気がついた。頭がぼうっとしていたのだろう、思わず携帯電話を開き、受信ボタンを押してしまっていた。
「はい、竜崎です――ああ、ママ」
『元気にしてる?』七絵さんの声がした『あのね、今日はクフ王のピラミッドを見物したのよ。それから近くの町でショッピングしたんだけど、とってもいいじゅうたんを見つけちゃって』
 バリバリバリ!
 バンバン!
『あらあら、なんだかうるさいわねえ』
「え、ええ。夕姫がテレビでアクション映画見てるの」知絵はどうにか、平静をよそおった声を出せた。「夕姫ー、ちょっとボリューム小さくしてー」
 バリバリ!
 バリバリバリ!
 バンバンバン!
「ごめんなさい、聞こえてないみたい」
『あらまあ。そう言えば夕姫ちゃん、そういう映画が好きだったわねえ』
「ええそう。もう夢中になっちゃって……」
 バン! バン!
 バリバリバリバリ!
『でも、あんまり銃で殺し合いするような映画、こどもが見ちゃいけないわよ。教育上、良くありませんからね』
「ええ、気をつけるわ」

――『C&Y地球最強姉妹キャンディ 夏休みは戦争へ行こう』

 本物の戦場のど真ん中に、お母さんから電話がかかってくる。周囲では銃声がひっきりなしにしてるけど、そんなことを知らない電話の向こうのお母さんは、映画の効果音だと思いこむ……とまあ、そういうギャグなわけ。
 これは擬音を多用しなくちゃどうしようもない。つーか、読み直してみると、もっとたくさん使ったほうが良かったんじゃないかと思うぐらい。
『キャンディ』は子供向けであることを意識して、擬音も他の小説よりは多めに使ってる。これも場合によりけりで、普通の小説の、それもシリアスな戦闘シーンで、擬音を濫用しちゃいかんと思う。ちゃんと描写しなくちゃいけない。
 いや、いるんだよ。戦闘シーンを「バリバリバリ」とか「ギュンギュンギュン」とかだけで済ませちゃう人が。
 それは効果じゃなく、単なる手抜きだからね?

 あっ、もうひとつ気がついた。この「手抜きだからね?」というの。
 普通、疑問符って、発声者が何か疑問を抱いているシーンにしかつけちゃいけないことになってる。「何?」とか「まさか、そんなことが……?」とか。
 ところが最近の小説、特にラノベだと、疑問文じゃない文章にも疑問符をつけることがよくある。特に相手に確認を求めてる場合。だから僕も、気がついたらよく使ってる。


 亜紀子は一騎に顔を近づけ、にこやかな笑みで言った。
「獣姦はだめだぞ?」
――『MM9 ―invasion―』

 思い出してみると、最初にこういう使い方があるのを意識したのはマンガだ。新井理恵の『X ―ペケ―』で、よく疑問文じゃない台詞に疑問符がついてたよ。
 考えてみれば、そもそも日本語に感嘆符も疑問符もない。たぶん明治時代あたりの誰かが、便利だから使いはじめて、それが定着したんだろう。

最近のラノベってこんなに酷いのな……
http://sonicch.com/archives/28672619.html

 これ、実は釣りである。最初に出てくるのは、「最近のラノベ」ではなく、アルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ!』(1956)の一シーン。つまり60年近くも前に使われた手法なのである。 これを「最近のラノベ」と思いこんでバカにする奴をバカにするというものなのだ。
 2番目の画像は、野﨑まど『独創短編シリーズ 野﨑まど劇場』(電撃文庫)に収録された作品。こういう実験的手法を駆使したギャグ作品集である。これはおおいに笑った。
 こういうタイポグラフィック・ノベルという形式も、昔からある。夢枕獏さんもデビュー当時、『カエルの死』というタイポグラフィ作品集を出していた。
 こういうの。

http://gold-fish-press.com/archives/4972

 もちろん筒井康隆氏の「上下左右」や「デマ」なども忘れてはなるまい。

 あと、僕らの世代で言うと、新井素子さんのデビュー作、『奇想天外』新人賞佳作の「あたしの中の……」(1977)に衝撃を受けた。若い女の子の会話体の一人称。先例がなかったわけではないけど(ご本人は小林信彦『オヨヨ島の冒険』の影響と言っておられる)、SFで見たのは初めてだ。「高校生の女の子がこんな文体でSF書いてる!」というのがショックだったんである。
 もちろん当時、古いSFファンの中には、あの文体に反発していた人もいた。たぶん他の新人賞で、頭の固い審査員だったら落とされてただろう。 新井さんを推したのは、『奇想天外』新人賞の審査員の一人、星新一氏である。まさに慧眼であろう。
 で、当時としては斬新だった「新井素子風文体」だけど、今はもう当たり前。いろんな人が使ってる。神坂一さんの『スレイヤーズ!』がそうだし、僕の『ギャラクシー・トリッパー美葉』もそう。

 もうひとつ、新井さんの作品で印象深いのは、長編『絶句……』(1983)。
 主人公である小説家・新井素子の一人称で書かれたSFなんだけど、途中で作者・新井素子が出てきて(ややこしいな)断りを入れるくだりがある。ここでどうしても三人称のシーンを入れなくてはいけないので、許してほしいと。
 同じ小説の中での一人称と三人称の混在というのは、当時としてはタブーで、決してやってはいけないこととされていた。しかし新井さんはそのタブーに挑戦したわけである。
 これもね、今はもうライトノベルで、みんなごく当たり前に使ってるんだよね。『生徒会の一存』とか『異能バトルは日常系の中で』とか。
 もしかしたら、今のライトノベルの読者が『絶句……』を読んだら、なぜ作者がわざわざ断りを入れるのか分からないのではないだろうか。

 要するに、小説家は昔からいろんな手法を開発したり、タブーを破ったりしてきたわけである。
 その中から、便利だとか優れているとか判断された手法が、他の作家に採用され、小説界に広まって、新たな「正しい日本語」となってゆく。
 だから、どこかの作家が何かタブー破りをやった場合、それがいいと思えばまねすればいいし、そう思わなければまねしなければいい。それだけのこと。

 あと、冒頭の鏡裕之氏の主張だけど、僕は全面否定しようとは思わない。小説を書きはじめたばかりのアマチュアで、まだ自分の文体が完成していない人に対しては、「多重カギ括弧のような手法を使うな」と言うのは正しいと思う。
 だって、筒井康隆さんも夢枕獏さんも横田順彌さんも、ちゃんと普通の文章が書けるうえで、ああいう実験的手法を使ってるんだもの。
 ピカソだって、最初からあんな絵を描いてたわけじゃない。初期の頃は「青の時代」とか「ばら色の時代」とか、普通の絵を描いていた。それに飽き足らなくなって実験的手法を開発したわけである。まともに絵が描けない人間がピカソのまねをしても、単にデタラメな絵になるだけだろう。
 小説も同じ。まだまともな文章も書けないのに、擬音を多用したり、「!」や「?」や「…………」を濫用したり、あるいは一人称と三人称を混在させたら、ひどい代物になる。実例はネット上に多数(笑)。
 ちゃんとした小説の文章が書けるようになるまで、こうした手法の使用は控えるべきだ。初心者のうちから安易にそういう手法に逃げたら、文章力が育たない。



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この記事へのコメント
 セリフの「…………」や「?」などの表現は、初めから映像化を念頭にしたシナリオの世界に多用されるようです。
 「北の国から」の脚本家、倉本聰氏が「…………」を多用するそうです。
 それはシナリオの段階で、映像化された時のテンポまで支配したいからだろうと会川昇氏が解説してましたね。
 
 一行開けて場面転換や時間経過を表すのもシナリオにあるのでは?
 たとえば、
 
 ○○「とにかく、○○の家に行って来い!」
 ○○「はい」

 ○○「えっ? いなかったって?」
 ○○「はい……」
 
 とか。

 擬音の多用もアニメや特撮に限らず、シナリオでは良く使われます。
 伊上勝氏の「仮面ライダー」もアクションシーンは擬音ばかりで、何やってるかわからなかったそうです。
 しかし、シナリオの世界では、それでよいわけです。
 映像化するのは別の人の仕事ですから。映像化する監督達は「俺たちに任してくれよ」という感じで。
 時代劇のシナリオだと初めから開き直って「殺陣師の人、ここ立ち回りよろしく」と書いてあったり。
 「男どアホウ甲子園」の原作を書いていた佐々木守氏なんか、本人に野球の知識がないものだから、試合のシーンになったら「それじゃ試合が終わったら、また会いましょう」と書かれてた、と水島慎二先生が笑って言ってましたね。

 映画やドラマのシナリオの世界は、ラノベと一緒で映像化を念頭に置いてるので似るのでしょうね。
 市川森一氏は「帰ってきたウルトラマン」の「この一発で地獄へ行け!」のラストに、「二人の間にさわやかな青春の風が流れる」と書いたら、監督に「こんなのどう絵にすりゃ良いんだ?」と苦笑されたという話が残ってます。
 シナリオの世界では、映像化出来れば良くて、詩的な表現がかえって嫌われるんですよね。
 だからか、脚本家の書く文章って酷いものが多いんです。
 あまり書きたくないんですが、藤川圭介氏のヒット作「宇宙ノ皇子」なんて文章が酷いものでした。
 長坂秀佳氏の小説「浅草エノケン一座の嵐」も「ああ、ここも文章酷いな……」と思ったことがあります。
 短いので引用しますが上原正三氏の「仮面ライダーJ」にも酷い文章がありました。
 引用しますよ。

 仮面ライダーJ対フォッグ・ライダーの死闘が始まった。
 フォッグ・ライダーの攻撃はパワフルだ。その攻撃は大王子のラグビーに似ていた。
 体当たり戦法。タックル。次々と技を仕掛けてきた。

 ↑ これですよ(笑)。
 もうちょっと文章的に盛り上げること、出来ないんですかねえ?
 でも、長くシナリオの世界にいた人には、こんな文章しか書けないのかもしれません。
 それに前述したとおり、映画やドラマの世界では映像化するのは別の人の仕事。これで良いんです。
 まあ、シナリオライターがこんな文章ばかり書いてるわけではないと知っています。
 鈴木吉武氏の「戦闘メカ ザブングル」は冒頭の一文が、

 最初のパンチはカウンター越しに来た。右のフックだった。

 と、ジロン・アモスの一人称で書かれた非常に面白いノベライズでした。

 ラノベの文章が酷い、酷い、と言われてますが、ラノベと言うものはシナリオと同じで映像化することを念頭に置いてます。(アニメやドラマ化に限ったというわけではなく、読者の脳内でですが)
 だから、別に文章として酷くたって構わないと思います。脳内で映像化出来れば。
 酷い、酷いというのなら、お前がラノベではなく別の物を読め、って感じですかね。

 もう一つ追加。
 疑問文じゃない文章にも疑問符をつけることがよくある。←これなんですが、発音の問題じゃないですかね?
 読者に語尾を上げて発音して読んでほしい時に、「?」をつける。
 そうすると語尾を上げて読んでくれそうじゃないですか(笑)?

 気軽な文章にカッチリしたルールを決める必要はないですよね。
 今回、私が(笑)、↑、← を使ったのも、それが言いたかったからです。とカッコ良く決めよう。

 でも、やっぱり、

 あと、冒頭の鏡裕之氏の主張だけど、僕は全面否定しようとは思わない。小説を書きはじめたばかりのアマチュアで、まだ自分の文体が完成していない人に対しては、「多重カギ括弧のような手法を使うな」と言うのは正しいと思う。

 これも正解だと思います。
 
Posted by 河合郷広 at 2014年07月12日 00:32
>ギャグであれば字を大きくするのも厭わない。『ギャラクシー・トリッパー美葉』や『地球最強姉妹キャンディ』では何度も使ったな。

 ややネタバレとなり申し訳ありませんが…『地球最強姉妹キャンディ』、2巻目で、ギャグではないシーンで字を大きくする技法をお使いになられていましたよね。薄々オチを仄めかしつつも切迫した場面だったので、凄く合っているとは思っています。

>『撃つぞーっ!』

 表現方法に正解も間違いも無いと、個人的には思っています。「ズルなのか技法なのか」という問題も、結局は肌に合うか合わないかの違いでしかない気がします。
Posted by toorisugari at 2014年07月12日 00:59
>で、当時としては斬新だった「新井素子風文体」だけど、今はも
>う当たり前。いろんな人が使ってる。神坂一さんの『スレイヤー
>ズ!』

 えーーーーー!!!スレイヤーズに使っていた話にびっくり。ちょうど高校一年生。ライトノベルを読みまくり始めた年。高校の図書館で初めて借りました。最初に私が読んだライトノベルであり、劇場アニメで母親と妹でみてからどハマリしました。

 ってことは、自分は当たり前に使っていた時代からか。こういう指摘がなければわからない。前の三点リーダについては、本読んでいるのに全く知りませんでした。このブログで初めて知りました。本読んでいるからといって知ってるとは限りませんよ。

 これからもというより、本でこういうネタを出してください。本当にお願いします。
Posted by てっき at 2014年07月12日 03:04
 「「」」の話、まだ続いてるの? 思うんだけど、プロなら特に、「読者を想定しない表現」なんてありえないと思うんだけどなあ。すべての表現は「読者にどう伝えるか」の選択であり、カギ括弧を重ねるのだって「この方法が読者にとって最適」と思うから選択するんですよ。

 ふと、思い出した。「「」」問題で、プロ作家は常に文字数や行数と戦っている、って面もある。
 声を揃えて言ったことをくどくど説明するより「「」」でくくって一行ですませてしまえば、浮いた分の行数を女の子の魅力の表現やクライマックスをもり上げるために使えたりするのよ
Posted by ラノベ博士 at 2014年07月12日 09:01
私もほぼ同意見ですねぇ。ただ、個人的には『小説で、科白の前に発言者の名前を書く』のだけは絶対認めたくないですが(^^;; さすがにそれは、登場人物の書き分けができていないだけだろうと(苦笑)。
Posted by あまね at 2014年07月12日 16:54
「台詞を書かずに疑問符のみ、感嘆符のみ、あるいは三点リーダのみ」は『七人の侍』の脚本にも見られる手法で、元は映像業界から来ているのでは?
Posted by T.Y at 2014年07月12日 20:24
 ラノベの技法の殆どは、マンガにその出典があるのでは
ないでしょうか?
Posted by その一 at 2014年07月12日 21:32
「……」といえば、山田風太郎が多用していましたね。時には長台詞と「……」のダイアローグ(?)が数ページも続いたりして。
あと、司馬遼太郎の作品でも「……」をよく見かけたような気がします。「……」だけじゃなくて「――」も。どういうルールで使い分けていたのかは判りませんが。
Posted by にょろたろう at 2014年07月12日 23:07
山本周五郎の「彦左衛門外記」とか、今のラノベと言っても通用しそうな作品ですが。
当時は、悪口言われたりしたのですかね。
Posted by ポポイ at 2014年07月13日 21:50
少し衝撃的だったことがあるので、コメントさせていただきます。
一人称と三人称の混在って、「同じシーン内で」ではなくて、「同じ小説内で」不可だったのですか?
海外小説では、昔から普通に使われているような気もするのですが。(シーンはたいがい変わりますけれど)
「私はホースラヴァー・ファット。公平を期すため、この文章を三人称で書いている」
は特別としても(小説のタイトルは、あえて書きません)、たとえば

「だからバルガスはあの四月、草刈りを止めたあの異常に暑い夜、決めたのだ。やめろ。出馬なんてするんじゃねぇ、アルベルト。日系のお前には原住民たちの苦悩なんか分からねぇだろう。 俺には分かる。俺こそがやるべきだ。俺だけがこの国を……」(今、適当に書きました)

こんな感じのものは特にSF小説には幾らでもあると思うのですが。
ひょっとして、これは、選考時の落選理由になったりしてきたのでしょうか?
実のところ、個人的には上のような表現が、読んでいて一番安心すると言いますか、しっくり来るんですが……。(笑)
Posted by あさ at 2014年07月14日 22:08
>河合郷広さん
>T.Yさん

 ああ、確かにシナリオで使われている手法の輸入という可能性はあるかもしれませんね。

>にょろたろうさん

 確かに昔の作家でも「……」を使ってた人はいるんですが、どれぐらい前からあるのか、最初に使ったのは誰なのか、今となってはわかりませんね。

>あささん

 三人称のシーンが混ざる必然性が読者に分かっていればいいんですよ。
 古くはH・G・ウェルズの『宇宙戦争』。あれは主人公の体験談というスタイルの一人称なんですが、途中で主人公の弟の体験を三人称で描いたくだりがあります。でも、それは主人公が後で弟から聞いた話をまとめたんだろうと考えれば問題ない。
 平井和正さんのウルフガイ・シリーズの中でも、主人公・犬神明の一人称の中に、「これは後から目撃者に聞いた話なんだが」とか前置きして、犬神明の見ていないシーンが挿入されることがありました。
 今は主人公が絶対知るはずのない出来事を三人称で語るのが当たり前になってるんですよね。
Posted by 山本弘山本弘 at 2014年07月17日 09:30
>toorisugariさん

 はい、あの「撃つぞー!!」は悩みに悩んだ末の選択ですね。あそこはもう、ああするしかないでしょう。あのシーンを描写するのに、あれ以上の適切な表現はないと思っています。
Posted by 山本弘山本弘 at 2014年07月17日 09:37
ラノベ批判はあちこちのオタク向けまとめブログに載っていますね。
毎回多少なりとも文学史の知識がある人が、『トリストラム・シャンディー』やアポリネールの詩を挙げて、純文学では大昔から使われている手法だと反論していますが。

一行空けたり、字を大きくしたりする手法は、山本さんがお好きな筒井康隆が読書エッセイで度々賞賛しているル・クレジオの『巨人たち』(邦訳は76年)で使われています。フランスの前衛作品にはもっと古い例がありそうです。

以前の3点リーダの記事を読んだ時にも気になったのですが、この記号を使う際には、2回繰り返すべきだと言う規則は本当に従う必要があるのでしょうか。
この記号の輸入元である欧米の文学作品を原語で読むと、点が3つしか使われていません。
2倍にして何か意味があるのかと思うのですが。
それに、大昔からあった決まりでもないらしく、私が所有している堀口大學の『月下の一群』(新潮文庫)だと、ボードレールやヴェルレーヌの原詩だと3つだった点が4つになっています。
この文庫の活字が組まれた昭和30年にはまだこの習慣が定着していなかったのでしょう。
Posted by UL at 2014年07月19日 00:56
「吉里吉里人」に、改行や…を封じられた小説家が…
Posted by 理力不足 at 2014年07月23日 22:05
昭和50年代に角川文庫に収録された眉村卓の『あの真珠色の朝を…』も点が3つしかありません。
一体何時頃から点は6つにすべきだとの思い込みが広まったのでしょうね。
現在流通している岩波文庫版の『月下の一群』を図書館で見たら、点が6つに修正されていました。
知ったかぶりをする人から突っ込まれるのを避けるために、不要な改変をするのはどうかと思うのですが。
Posted by UL at 2014年10月17日 23:06
>『撃つぞーっ!』 ×
>「撃つぞー!!」   〇

 …引用が正確でなくて申し訳ありませんでした、今更ながら御訂正有難うございました。

 鏡 裕之さん、『ブラバスター』という作品でお世話になった作家さんです。今思い返してみれば、カギ括弧の使い方をはじめ、殆どこの記事で取り上げられているような手法をお使いになられない文章をお書きになられていました。懐かしいです。
Posted by toorisugari at 2015年01月23日 02:07
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