2013年11月13日

「インディアナポリス」問題:部落解放同盟の見解

 最後に、『差別用語の基礎知識'99』に収録された、「差別語問題についてのわれわれの見解」という文章を紹介しておこう。これは部落解放同盟中央本部が1975年9月に発表したものである。
 実はこの当時、日本共産党と部落解放同盟は「差別語」の扱いをめぐって対立していたらしい。
 この年の6月9日の『赤旗』は、マスコミ各社が「禁句集」「言い換え集」を作って差別語の使用を禁じているのは、部落解放同盟の糾弾のせいであると主張。それに対し、部落解放同盟は「わが同盟は被差別部落にかかわる差別語以外、糾弾したことはない」と反論している。

> われわれもまた、テレビ各局のおこなっている、このような、コッケイな「内部規制」には反対である。テレビ各局のおこなっている「内部規制」は、差別を生み出す社会そのものを問わず、ことばだけに問題をすりかえることである。そしてそれは、逆に問題の解決をおくらせるものである。なぜなら、この態度は、臭いものにフタという考えにほかならないからである。しかも、たとえば、タレントに十分納得させて、いいかえさせるのではなく、とにかく、いいかえろという強圧的であるところに重大な問題がある。

 また、「人権をふみにじり、差別し、差別を拡大させる文章や、文学作品も、世論でほうむらねばならない」と書いた後に、島崎藤村の『破戒』を例に挙げ、こう述べている。

> 差別助長の文学は、本来、人間の自由を求める、文学の行為そのものにも反しているからである。ただし、作品の一部分で、たとえ差別語を用いても、その作品全体が、真の自由を求めるものならば、われわれはそれを糾弾しないし、糾弾したこともない。
> 周知のとおり、『破戒』初版本は、「穢多」という差別語を用いている。しかしわれわれは、解説で、読者の十分な理解を求めることを条件に、出版に賛成している。各出版社の発行している文庫本や日本文学全集や、島崎藤村全集を参照すれば、ただちに了解のいくところである。
> したがって、歴史書や研究書においても、われわれは同様の態度をとってきた。ところが一部に、引用する古文書のなかの、「穢多」「非人」という文字すら、伏字にする動きのあることは、歴史学の専門家のなかにあっても、部落差別のなんたるかを知っていない人がいかに多いかを示していて、寒心にたえないところである。

 つまり差別語が使われていても、本全体として差別に反対する内容であれば出版に賛成するよ、というのが部落解放同盟のスタンスなのである。

> われわれは、「穢多」「非人」がいかに非人間的名称であり、差別語であろうと、それが用いられていた歴史的事実を消しさることはできないと考える。また消しさる意志もない。被差別部落への差別が、完全になくなるような時代がきても、このコトバを消しさってはならない。歴史的事実として、歴史書や辞書などに、厳然とのこすべきである(いわんや、今日の歴史書や辞書などから抹殺するなど論外である)。このことは、差別を根絶していくために、あるいは差別がよみがえらないためにも必要である。なぜなら、数百年の差別の事実、あるいは、差別根絶のための、苦難にみちた闘争が、このコトバには、こめられているからだ。

 被差別部落以外の差別問題についても触れている。

> したがって、ことばのいいかえでは問題は解決しない。「きちがい」を「精神障害者」、「びっこ」を「身体障害者」とか「肢体不自由者」とかよびかえても、「余計者」「厄介者」待遇が変らねば、いささかも事態は変らないことは、いうまでもない。とくに「めくら」を「盲人」におきかえたのは、全くの同義語を大和ことばから、漢語におきかえたにすぎない。マスコミや、テレビ局の、この種のいいかえは詐術に近く、差別語追求を、こうしたいいかえ、おきかえで満足していてはならない。
>「めくら」「びっこ」というコトバが、差別を生むのではなく、「めくら」「びっこ」が人権をうばわれ、差別される存在として、この社会におかれていることによって、これらのコトバが差別の色あいを持つのだということを、明確にしなければならないだろう。

 これは1975年に書かれた文章だが、今では「盲人」という言葉も自粛して、「目の不自由な人」と書くことが多い。現代小説ならまだしも、時代小説を書いてる人は困るだろうなあ。
 似たような言葉として、「土人」を言い換えた「原住民」を、さらに「先住民」に言い換えるという例がある。僕の場合、「インディアン」の場合とはちがい、「原住民」を「先住民」に変えても何の支障もないので、訂正要求には応じることにしている。でも、いつも疑問には思っている。

「原住民」と「先住民」の違いっていったい何?
 どう見ても意味は同じだよね?
 それなのに一方がNGワードに指定されてるってどういうこと?
 禁止語リストを作った人、そしてそれを守ってる人、ちゃんと自分の頭で考えてますか?

 最後にこの声明は、10項目の「基本的立場」を表明する。長くなるので、そのうちの2項目だけを紹介しよう。

>③ 現在、マスコミ・テレビ局ですすめられている、禁句集、いいかえ集などの内部規制は、差別の本質に迫ることなく、コトバだけをいじることによって問題を矮小化し、支配者の言論・表現の自由抑圧に手をかすものであって、われわれは断じて反対である。

>⑧ 差別語や、差別的比喩に対し、われわれは糾弾・抗議をおこなう。ただし、差別語が用いられたから糾弾するというのではなく、文脈全体のなかでその前後関係をよくみて、差別を助長するか、否か、その与える影響というものを判断しておこなうという、従来の方針を堅持する。

 この「差別語問題についてのわれわれの見解」の中に、マスコミの「差別語狩り」への反論が言い尽くされているのではあるまいか。
  


Posted by 山本弘 at 18:09Comments(6)差別問題

2013年11月13日

「インディアナポリス」問題:「差別語」はなぜ生まれたか

 そもそもなぜ「差別語規制」「禁句集」なんてものが生まれたのか。その歴史的経緯を知らない人が多いようなので、解説しておく。
 1970年代まで、マスコミには言葉の規制なんてなかった。
 僕がよく例に挙げるのは、『ウルトラマン』の第2話、これからバルタン星人との交渉に赴こうとするイデ隊員が言う。

「そりゃあ僕は宇宙語に関してはかなり気ちがいさ。でも、本当の宇宙人と喋った経験はないからね」

 この場合の「気ちがい」という言葉には侮蔑的ニュアンスはない。自分は宇宙語を熱心に勉強しているという肯定的なニュアンスで発せられている。
 僕が子供の頃、日本人はみんな「気ちがい」という言葉をごく普通に使っていた。差別的な意味なんかなかった。それどころか、イデ隊員のように、何かのジャンルのエキスパートが誇りをもって、自らを「気ちがい」と呼ぶこともあった。
 もちろん精神障害者を「気ちがい」と呼んで侮蔑する奴はいたが、それは侮蔑の感情をこめて使用していたからいけないのである。
 だいたい、よく見てほしい。「精神障害」とか「精神異常」という言葉に比べて、「気ちがい」って悪い言葉だろうか? 一方が「障害」「異常」と決めつけているのに対し、「ちがい」にすぎないと言っているのだ。
「障害」「異常」と「ちがい」――どっちがより穏やかな表現だろうか?

 あるいは「朝鮮人」という言葉を考えてみれば分かる。もちろん「朝鮮人」という言葉自体に差別的な意味なんかない。でも、差別主義者が侮蔑の感情をこめて「この朝鮮人め!」と言ったら差別になる。
「シナ」という言葉もそう。この言葉を使いたがる人間は必ず、「シナという言葉に差別的意味はない」と主張する。それは確かにそうなんだけど、問題は「中国」という言葉があるのにわざわざそれを使わず、「シナ、シナ」と連呼する奴は、たいてい中国嫌いだということ(笑)。つまり「シナ」が差別的なんじゃなく、それを差別的文脈で使うのが問題なんである。
 どんな言葉もそうなのだ。辞書に載っている定義だけではなく、その言葉が発せられた状況が重要なのである。

「バカ」という言葉も、恋人に対して優しく発すれば、愛の言葉になる。
「君は頭がいいねえ」という言葉も、皮肉っぽく発すれば侮蔑になる。

 単語単位ではなく、その前後を見て、どんなニュアンスで発せられたかを確認しないと、差別発言かどうかは判断できない――当たり前だけど。

 1960年代から70年代にかけて、テレビや出版物の中での差別発言に対して、人権団体が強硬に抗議するという例が何度もあった。
 ほんの一例を挙げるなら、1973年7月19日、フジテレビの『三時のあなた』にゲストとして出演した玉置宏氏が、「お子様がもし歌手になりたいといえば、どうしますか?」と質問され、こう答えた。

「大反対します。この世界には入れたくないですねえ」
「どうしてですか?」
「そりゃ、だってもっと、素晴らしい世界がありますよ。特殊部落ですよ。芸能界ってのは」

 この「特殊部落ですよ」という発言のせいで、玉置氏は部落解放同盟の糾弾を受けた。
 注意していただきたいのは、玉置氏が糾弾されたのは「特殊部落」という単語を使ったからではないということ。「素晴らしい世界」の反対語として「特殊部落」という比喩を用い、「入れたくない」と言ったからである。つまり単語の使用に対してではなく、それが差別的比喩として使用されたことに、解放同盟は抗議したのである。
 こうした例が相次いだことから、マスコミ各社は対策を余儀なくされた。
 しかし、ここで大きな間違いを犯した。

「差別発言をやめる」のではなく、「“差別語”を使わない」という選択をしたのだ。

 この場合の“差別語”とは、この時にマスコミ各社が作った禁止語リストに載っている言葉である。つまり「気ちがい」「部落」はもともと“差別語”ではなく、マスコミによってNGワードに指定されたことによって“差別語”になったのである。
 先にも述べたように、「“差別語”を使う」=「差別発言」ではない。「部落」とか「気ちがい」という言葉を使っていても差別ではない発言はいくらでもある。
 反対に、リストにある言葉をまったく使わなくても、その気になれば差別発言なんかいくらでもできる。

 有川浩『別冊 図書館戦争Ⅰ』(メディアワークス)に、木島ジンという作家が出てくる。こいつは過激なバイオレンス小説を書いていて、青少年にも影響を与えているのだが、メディア良化委員会はこいつを取り締まれない。なぜなら、メディア良化委員会の定めた「違反語」を一つも使っていないからである。

>このひまわり学級が!
>自営巡回ゴミ漁りはそれらしくゴミ箱で今日のメシでも食ってろ!
>識字率は九十九%以上の日本で貴重な残り〇・数%に出会うとは思ってもみなかった。

 木島ジンはこうした反社会的・差別的な小説を、メディア良化委員会への挑戦として書き続けている。すごく嫌な奴だと思うんだけど、言ってること自体は正論なんで、余計に苛立つ。
 しかし、「このひまわり学級が!」には恐れ入った。確かに「ひまわり学級」はNGワードに指定できないもんなあ。

 木島ジンの場合は自覚的にやってるわけだけど、それを無自覚にやってる奴も多い。
 ちょっと前、ネットで、差別発言を連発しているくせに「差別発言なんかしていない」とうそぶいている奴を見たことがある。「まるですぐウッキーってなるどっかの国の人みたいだ」という表現をやたら連発するんだけど、具体的に国名を書いていないから差別じゃないと言い張るのだ。
 ああ、よくいるよなあ。「キ××イ」とか伏字にさえすれば差別発言ではないと思いこんでる奴とか(笑)。


 ふざけんな。


 これはマスコミの「“差別語”狩り」が生み出した弊害のひとつと言えよう。NGワードさえ使わなければ、あるいは伏字にしたり「トーシツ」とかいう隠語を使えば差別にならないと思いこんでいる奴がいかに多いか。
「“差別語”を使う」=「差別発言」ではないということを、もう一度みんな、頭に叩きこんでほしい。それが差別発言かどうかは、単語単位じゃなく、文脈によって判断しなくてはならないということを。

「禁止語」「言い換え集」が生み出したもうひとつの重大な弊害は、それがすでに問題となった言葉だけじゃなく、まだ問題になってない言葉、どこからも抗議が来ていない言葉まで先回りして禁止してしまったということだ。
 もう一度言う。「盲船」や「片腕」にいちいち抗議する人なんてどこにいるの?
 いないよね?
 しかし、「禁止語」に加えられたことで、事情を知らない若い編集者の間に、「○○という言葉を使ったら100%抗議が来る」という迷信が生まれてしまっているのである。
 そう、これはまさに現代の迷信。「○○に触れたら祟りがある」と思いこんでいるのだ。
 そういう考え方こそ差別なんだけどね。
  


Posted by 山本弘 at 17:58Comments(12)差別問題

2013年11月13日

「インディアナポリス」問題:朝日新聞の言い換え集

 大手マスコミには必ず「言い換え集」「禁句集」というものが存在する。
 高木正幸『差別用語の基礎知識'99』(土曜美術社出版販売)という本には、「マスコミの言い換え」の例として、朝日新聞の「取り決め集」1994年版が収録されている。 内容を見てみると――

▽めくら→盲人、目が不自由な人
▽おし、つんぼ→ろう者、ろうあ者、口が不自由な人、耳が不自由な人
▽文盲は使わない。
(めくら判、つんぼ桟敷なども避ける)

 などなどは、まあよくある例だけど、

▽現地人→現地の人、○○国の人

 なんてのは首をかしげる。「現地人」と「現地の人」で、何がどう違うというんだろうか?
 他にも、

▽養老院→老人ホーム、老人養護施設
▽未亡人→故○○氏の妻
▽女流作家、女流画家(特に必要なとき以外は使わない)
▽女傑、女丈夫(使わない)
▽主人、亭主→夫(なるべく言い換える)

 などなど、「えっ、そんな言葉まで?」と驚く例がいくつも。
 犯罪関係の用語だと「強かん」は「乱暴、暴行」に言い換えるが、「ただし、刑法上の罪名は別」と書いてある。つまりレイプ犯の罪名を「強姦罪」と書くのはいいけど、それ以外では書いてはいけないと……。
 わけが分からないよ。
 他にも、「バレる」「ヤバい」「町のダニ」「賊」「しらみつぶし」「ずらかる」「いちゃもんをつける」「ケツをまくる」なども「不快感を与える」という理由で使わないことになっている。ええー? 「しらみつぶし」や「いちゃもんをつける」で不快感を覚える人なんているの?
 ちなみに、このリストに「インディアン」は含まれていない。1994年版なんで、今はどうなってるのか分からないけど。

 ただ、注意しなくてはならないのは、この「言い換え集」、絶対に遵守しなくてはならないものではない、ということ。
 前文では、「人権を擁護すること、差別を受ける人の身になって考えること」という基本的な姿勢が示され、「以下の用語例の中にあるものでも、文脈上、前に述べた基本的精神に反しないことが明らかであり、表現の上でぜひ必要な場合は、使ってよいケースもあり得る」と書かれている。 そりゃそうだわ。

 で、僕が疑問なのは、本当に創土社では「インディアン」は「理由の如何に拘らず弊社基準で使用不可」なのか、ということ。
 もしかして、前文に「表現の上でぜひ必要な場合は、使ってよいケースもあり得る」と書かれていて、それを読み落としてるんじゃないのか、という気がひしひしとする。常識的に考えて、そういう前文入れるだろ、普通?
 そうでないと、ホラー小説なんて出版できないもの。
 もし本当に「理由の如何に拘らず弊社基準で使用不可」だとしたら、創土社の基準は朝日新聞のそれよりはるかに厳しいってことになっちゃうんだが……。
  


Posted by 山本弘 at 17:22Comments(1)差別問題

2013年11月13日

「インディアナポリス」問題:クトゥルフ関係

 僕以外の例も挙げておこう。
 クトゥルフ関係の著作が何冊もある森瀬繚さんのツイッターより。『ゲームシナリオのためのクトゥルー神話事典』(ソフトバンククリエイティブ)の裏話。

http://togetter.com/li/588541

>インディアンについては、まあ先住民族で妥協するとして、最大の問題はアレですよアレ。「The Blind Idiot God」! こいつをどう扱えば良いのさ畜生め。あ、「畜生」は小説のセリフでは大丈夫かもですけれど、解説書の類の地の文ではNGかもですね。>SB社基準

>最初はシレッと「盲目にして白痴の神」と書いといたわけですが、ニッコリ笑った編集担当氏から「ダメに決まってんだろこのクソボケ、さっさと書き直せ」(大意)という返事が来るのは必定でした。この戦いは、実に3週間に及び--。

>最終的に、これもダメだろうなーと半ば思いつつ「痴愚」で出してみたところ、恐怖の校正チェックを何とか潜り抜けることができたとの報が。というわけで、『ゲークト』のアザトースは「目の見えぬ痴愚の神」になった次第。まあ、他にもいろいろあったのですけど、最後までひっぱったのはこれでした。

 ああ、「The Blind Idiot God」は確かに悩むよね。
 ちなみに僕は、『クトゥルフ・ハンドブック』(ホビージャパン)の39ページで、「白痴で盲目の絶対神アザトース」という言葉を堂々と使ってる。しかし編集者には何も言われなかったし、抗議もまったくなかった。まあ25年前の本だけど。

 他にも、知り合いの時代小説作家が、「編集者が“盲船”(めくらぶね)という言葉を使わせてくれない」と嘆いていたのを聞いたこともある。厚い板で囲った軍船のことで、視覚障害者とは何の関係もないのだが。
 この時はどうしても編集者が折れないので、しかたなく、存在しない言葉をでっち上げて使ったという。

 知り合いの編集者からもう15年ぐらい前に聞いた話だが、「こいつは俺の片腕だ」という表現は自粛して、「こいつは俺の右腕だ」と書くのだそうだ。左利きのキャラクターの場合はどうするんだろう。
 どうしても片腕とか片眼のキャラクターを出したい場合、「隻腕」「隻眼」と書けばいいのだそうである。何で「片」がだめで「隻」ならいいんだろうか。分からん。

 はっきり言えるのは「○○という言葉を使ったら抗議が来る」というマスコミ関係者の思いこみは、ほとんどの場合、被害妄想で根拠がないということ。
 そもそも誰が「盲船」や「片腕」にクレームつけてくるって言うの?
 ドスエフスキーや坂口安吾の『白痴』に抗議が来たなんて話は聞いたことがないよ。
  


Posted by 山本弘 at 17:19Comments(0)差別問題

2013年11月13日

「インディアナポリス」問題:『神は沈黙せず』の場合

 今回のような悶着が起きるのは、これが最初ではない。というか、小説家なんてやってると、しょっちゅうぶち当たる問題なんである。
 これまで体験したいちばん笑える例は、2006年10月、角川書店から『神は沈黙せず』の文庫版を出した時のことである。当時のmixi日記からそのまま引用する。

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 角川より連絡。『神は沈黙せず』の文庫版のゲラにまたチェックが入ったので見てほしいという。
 はて、ゲラはもう返したはずだが……と思ったら、何でも『TVブロス』が抗議を受けたという事件があって、角川も差別問題に今まで以上に過敏になっているという。
 ちなみに『TVブロス』の差別問題というのは、あるライターがカンヌ映画祭についての記事の中で「エタヒニン」という言葉を使ったというものらしい。そんなことを書くライターもライターだが、通してしまった編集者もバカである。要するに差別問題に関する知識も関心も自覚もまるでなかったわけで、問題になるのは当たり前ではないか。
 それでこっちまでとばっちりを食うんだから、たまったもんじゃない。

 返ってきたゲラの量が、けっこう多い。例によってびっしりチェックが入っている。
 だが、チェック箇所を見て大笑いである。さあ、みなさんもいっしょに笑っていただきたい。

>ネットに流れた情報だけを盲信した人々が
>精神病院に入院させられているとか
>地球が狂いはじめているのではないだろうか
>まったく根拠のない盲信にとらわれていて
>狂信的な熱情にかられて行動した
>たちまち悪臭漂うスラムと化した
>自分の中にも狂気がひそんでいる可能性
>強いボスに盲従する猿たち
>いみじくもドーキンスが言ったように、「盲目の時計職人(ブラインド・ウォッチメイカー)」なのだ。
>兄は狂っているのだろうか。
>超能力者の言葉を盲信する
>宗教的盲信から信じたのでもない
>論理ではなく盲信で動いてるんじゃないか
>狂信的な集団
>よく発狂しなかったものだと
>悲しみのあまり狂乱したことも
>怒り狂った群集によって
>頭のおかしい人間が行なった未熟な犯行にすぎず
>狂信的な宗教独裁国家
>ポルターガイストの荒れ狂う施設
>兄の精神に問題があるかのように言うなんて!
>熱狂的な加古沢ファン
>熱狂的に受け入れられた
>その熱狂の蔭に隠れて
>精神錯乱が多発した
>結束と狂信性を強めた
>ファンの狂騒に踊らされることは決してなかった
>熱狂的な快哉
>狂気と正気の境界線をどこに置くか
>混沌となった感情が荒れ狂った
>狂気に蝕まれている自分に言い聞かせた

 ぜいぜい、書き写すだけでも大変だ。これでもチェック箇所の半分ぐらいなんである。
 つまり「狂」「盲」という字すべてにチェックが入ってるんである。たまらん。
 だいたい『ブラインド・ウォッチメイカー』を他にどう訳せと? つーか、「ブラインド」はOKで「盲目」はダメという根拠は何だ?
 いちばん笑ったのは、

>私はぽかんと口を開けた。盲点だった。

「盲点」にもチェックが!?(笑)そりゃ盲点だったわ。いやもうこれは床にひっくり返って笑ったよ。

>馬丁の娘
>老婆の横顔

 という部分にもチェックが入った。「馬丁」も差別語とは知らんかったよ。つーか、これをどう言い換えろというのだ?
 なぜ「老婆」が差別語認定されているのか、編集さんも首をひねっていた。おそらく、かつて「婆あ」という侮蔑的表現が問題になったことがあって、そこから拡大解釈して「婆」という漢字すべてを自粛することになったのではないかと想像するが、今となっては真相は分からない。

>電波系
>サイコキラー

 という単語にもチェックが入った。「サイコ」という言葉がまずいらしいのだ。冗談じゃねえよ! ヒッチコックの映画はどうなるんだよ!? つーか、「サイコキラー」なんて言葉、日常的に使ってるだろ。

>かなり節操のない日本的キリスト教徒だったようだ

 という部分にもチェック。「『日本のキリスト教徒は節操がない』と誤読されるおそれがあるのでは?」というのである。いねーよ、そんなひねくれた誤読する奴。お前だけだよ。

>日本各地の福祉施設に収容された何千人もの子供たち

 という部分にもチェックが入った。「収容」という言葉がいかんので「預けられた」に改めろという。なぜ? 分からん。

 さらに笑えたのが、アメリカ国内でイスラム原理主義者やキリスト教右翼によるテロが起きるというくだり。校正者の意見によれば、

「フィクションですが、偏見を助長するおそれがあるのでは?」

 アホかああああーっ!
 実在の集団による犯罪行為をフィクションの中で描いてはいかんというのなら、スパイ小説もポリティカル・フィクションも書けんようになるわーい!
 出版業界で生きる人間が、自分の首絞めてバラバラにして埋葬するようなことを言い出すんじゃねえええーっ!

> あるいは、ネットでベストセラーになったコミック『サンバーン』の作者、三崎純へのインタビューという話もあった。参考のために読んでみた私は、すぐに編集者に電話をかけ、「この仕事は別の人に回して」と依頼した。身障者の少女をレイプし、いじめ抜いた末に殺害する主人公の姿と、それをギャグを交えてあっけらかんと描く作者の姿勢は、私には反吐が出そうなほど不快だった。紙の本が出版物の主流で、出版業界のモラルが守られていた時代には、とうてい陽の目を見なかった作品だ。こんなものを描く人物がいることにも、それを夢中になって読む大衆がいることにも、やりきれなさを覚えた。

 という部分にもチェックが入った。だからさ、主人公は差別意識に対する激しい怒りを表明してるんだよ? あんたちゃんと文章の意味、理解してる?
 25章のこんなくだりにもチェックが、

> テキサス州アマリロの市庁舎では、玄関ホールの天井から長さ五メートルもある巨大な足がぬっと突き出した。職員や市民を驚かせただけで、すぐに消えてしまったものの、監視カメラには人間の一〇倍ぐらいのサイズがある白い素足がはっきり映っていた。明らかに黒人の足ではないことから、白人優越主義者はまたもや「神は白人であるという証明だ」と主張した。
> ところがその四日後の夕刻、今度はニューメキシコ州フォート・サムナー郊外の住宅街に、巨大な裸の黒人が出現した。それは一〇人以上の目撃者たちの前で、身長一・二メートルから六メートルまで大きさを自由に変えたという。今度は黒人たちが「神はやっぱり黒人だった」と主張する番だった。

 どこがまずいと思います?
 なんと、「黒人」という単語すべてにチェックが入ってるのである! ええー、「黒人」もNG用語!? んなアホな!

『神は沈黙せず』をお読みになった方ならお分かりのように、この小説には僕自身の、身障者差別・人種差別・民族差別に対する強い嫌悪が随所に反映されている。
 差別問題を扱うのだから当然、差別的発言をする登場人物も出てくるわけだが、それにすべてチェックが入った。「朝鮮の手先」「あつらは犯罪者ばっかりだ」とかである。
 だからさ、この小説は差別を糾弾してる内容なのに、何でびくびくして自粛しなきゃならんわけ? おかしいじゃん!

 最初は笑ってたが、だんだん腹が立ってきた。
 この校正者の野郎、自分では何も考えてない。機械的に「狂」「盲」という字を検索しているだけである。ある表現が差別に当たるかどうか自分で判断することを放棄して、著者に全責任を押しつけている。それはつまり、「私は差別問題なんか分かりませーん」「責任とりたくありませーん」と宣言しているようなもんではないか。
 そういう意識こそ差別なんだと、どうして気づかん!?

 でもって、これまで小説の中で差別問題を何度も描いてきた僕が、何で今さら糾弾を恐れなくちゃなんないんですかい!?
 こわくないよ、そんなの。万が一、同和団体に糾弾されたって、これまで自分が書いてきたものをずらっと並べて、「あなたの方こそ不勉強です。これを読んでください。僕はこういう作家です」と、逆に教育してやるよ。

 ちなみに、サーラ外伝「死者の村の少女」は、「名もなき狂気の神」の暗黒司祭に支配された村が登場する。こいつはもろに気ちがいである。だもんで「狂気」「発狂」「狂う」という表現がストレートに頻出する。
 先日、ゲラが返ってきたが、案の定、表現にはほとんどノーチェックである。そりゃそうだ。僕は差別表現にならないよう考えて書いてるもの。
 それを角川の編集さんに愚痴ったら、

「いや、ファンタジア文庫とは影響力が違いますから……」

 えー、でも部数だけ見たら、『サーラ』の方が『神は沈黙せず』より売れてるんですけど(笑)。

【追記】

 後で編集さんから電話。校正者のチェックの入ったゲラを1枚送るのを忘れてたんで、いちおう確認してくれという。
 どういう箇所かというと、

>カメラは群集にもみくちゃにされながら、感激して涙ぐむ中年女性、興奮して喋りまくっている黒人男性、大声で歌っている若い娘、狂ったように踊り回る少年、きょとんとしている幼児、複雑な表情で群集を整理している警官を映し出していた。

 はーい、みなさん、もうお分かりですね。「黒人男性」と「狂ったように踊り回る」にチェックが入ってたの(笑)。
 編集さんも笑って「これはもうスルーでいいですよね」と言う。スルーだスルー、みんなスルー!

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 ちなみにこの時の体験は、短編「七パーセントのテンムー」(『シュレディンガーのチョコパフェ』に収録)に反映させている。今後も、僕を怒らせたら、即座に小説のネタにするからね(笑)。

 誤解されないように、二点注意しておく。
 角川書店の本でこんなにも厳しいチェックが入ったのは、後にも先にもこの時だけ。文中にもある『TVブロス』事件の影響で、角川書店全体が「また抗議が来るのでは」と過敏になってたらしい。いや、いくらなんでも「黒人」とか「サイコキラー」と書いたぐらいで抗議なんか来ませんってば。
 また、この時は担当編集者(『去年はいい年になるだろう』にもご登場いただいた主藤雅章氏)が大変に理解のある方で、校正者のばかげた指摘を「こんなのはみんな突っぱねましょう」と言ってくださったので、まったく直さずに済んだ。

 ただ、角川で差別表現が議論になったことがないわけではない。
『神は沈黙せず』の最初の単行本の時、ヒロインの台詞で一箇所、差別表現じゃないかと主藤氏に指摘され、議論した挙句、結局、僕の方が確かに差別表現だと認めて書き直したことがある。
『アイの物語』の時は、アンドロイドが「狂う」という表現が差別的ではないかという指摘が校正者からあり、主藤氏と二人で悩みまくって、結局、「機械であるアンドロイドの場合、時計が“狂う”のと同じであり、差別表現ではない」という結論に達し、校正者を納得させた。
 こんな風に、作家と編集者がいっしょになって「差別表現かどうか」を考えるのが正しい姿勢だと思う。

 ただ、すべての編集者が主藤氏のように理解があるわけじゃなく、中には作家の意志を無視して書き換えを要求してくる人もいるということは知っておいてもらいたい。
  


Posted by 山本弘 at 17:13Comments(4)差別問題

2013年11月13日

「インディアナポリス」問題:編集者の見解

 先日の「インディアナポリス」問題について、当の創土社の編集者からコメントが出ていた。

http://cthulhu8soudosha.blog.fc2.com/blog-entry-28.html

>ある博物館に入ろうとして受付で
>「インディアンについての展示がありますか?」と聞いたら
>入場を断られたという話もあります。


 アメリカには「The National Museum of the American Indian」という博物館があるのだが、ここで「インディアンについての展示がありますか?」と聞いたら入場を断られるのだろうか?
 つーか、「インディアンについての展示がありますか?」と訊ねただけで入場を断る博物館なんて本当にあるのか?
 ちなみに、この編集者の情報源は何かというと、

>上に揚げたことについて、私はほとんどネットで目にしているだけなので
>絶対本当か!と言われればなんとも言えません。


 ほとんどネットの噂かよ!?(笑)。
 さらにこの編集者はこうも書いている。

>「NGワード」というのは大手の出版社では厳密に決まっていて
>この手の読み物では担当レベルの意見をする余地がありません。
>「NGワード」とされているものは「理由の如何に拘らず弊社基準で使用不可」。


 本当だろうか?
 試しに、AMAZONでざっと検索してみた。日本では過去10年間にこんな本が出ている。
『アメリカ・インディアン法研究〈1〉』(北樹出版・2012)、『インディアン・スピリット』(めるくまーる・2011)、『はみだしインディアンのホントにホントの物語』(小学館・2010)、『写真でみるアメリカ・インディアンの世界』(あすなろ書房・2007)、『インディアンは笑う―あなたの厳しい現実もひっくり返す、ネイティブ・アメリカンの聖なるジョーク!』(マーブルトロン・2007)、『太ったインディアンの警告』(日本放送出版協会・2006)、『オールド・マン・ハットの息子―あるナバホ・インディアンの回想』(新思索社・2006)、『ネイティブ・アメリカンの世界―歴史を糧に未来を拓くアメリカ・インディアン』(古今書院・2006)、『アメリカン・インディアンの歌』(松柏社・2005年)、『コヨーテ老人とともに―アメリカインディアンの旅物語』(福音館書店・2005)、『アメリカ・インディアンの心もからだもきれいになる教え』(扶桑社・2005)、『インディアンカントリーへ』(ワールドフォトプレス・2004)、『ターコイズ―大地の贈り物インディアンジュエリー』(ワールドフォトプレス・2004)、『American Indian Potter』(講談社インターナショナル・2004)、『アメリカ・インディアンの知恵』(PHP研究所・2003)……。
 なんだ、小学館もNHKも講談社も「インディアン」って言葉使ってるじゃん!
 創土社ではどうだか知らないが、小学館やNHKでは「理由の如何に拘らず弊社基準で使用不可」なんかではないということだ。
 海外でも同様で、『American Indians and Popular Culture』(Praeger・2012)、『The North American Indian』(Taschen・2007)、『Real Indians: Portraits of Contemporary Native Americans and America's Tribal Colleges』(Melcher Media・2003)、『George Catlin's Souvenir of the North American Indians: A Facsimile of the Original Album』(Thomas Gilcrease Museum Assn・2003)などなど、「Indian」という単語をタイトルに使っている本はいくらでもヒットした。
 もちろん、これらの本に抗議があったなんて話はまったく聞かない。「“インディアン”という言葉を使ったら100%抗議が来る」というのは妄想だと断定してよかろう。

 さらに、僕がいちばん驚いたのはここ。

>ましてや、人を楽しませようと思っている娯楽小説!
>なんでわざわざそんなリスク(人を傷つける)を冒す必要があるのか…。


 ちょっと待てえええええええ!

 あんた、自分とこの会社がラヴクラフトについての本出してるって自覚あるのか!?
 ラヴクラフトの書いた「娯楽小説」にどんだけたくさんの差別的表現があるか分かってて言ってるのか?
 ラヴクラフトはファシストを自認する保守主義者であり、KKKの活動を賞賛していた。彼は中国人街を訪れた際の印象を、友人への書簡の中でこう書いている。(出典は『幻想文学』6号「特集・ラヴクラフト症候群」だったと思うんだけど、現物が書庫から出てこないので、『クトゥルフ・ハンドブック』からの孫引きで済まさせていただく)

 あの奈落に棲息している確かに有機体にはちがいないもの――あのイタリア・ユダヤ・モンゴルもどきども――は、いくら想像を逞しゅうしても、とても人類の名に価するとは思えません。ピテカントロプスとアミーバのぞっとする、ねっとりした混成物です。汚染した大地の吐き出す臭穢な泥土をいい加減に捏ね回したあげくの泥人形――奴らは、あるいは屍体に湧く蛆虫の蠢動するごとく、あるいは深海に棲息する気味悪い生き物のごとく、建物の窓や戸口から、悪臭ふんぷんたる路上へ沁みだし、湧きこぼれているのです。(後略)
(森茂太郎訳)

 そう、ラヴクラフトは人種差別主義者であり、イタリア人、中国人、ユダヤ人、黒人などに対する強烈な嫌悪を隠さなかった。そして、彼の作品にしばしば登場する、人間と異生物との混血というモチーフ(「インスマウスの影」「ダンウィッチの怪」「アーサー・ジャーミン卿の秘密」など)は、彼の異人種への嫌悪と表裏一体なのだ。
 これはべつに秘密でもなんでもなく、ラヴクラフトについてちょっとでも調べたことのある人間なら誰でも知っている事実である。そして、彼の考え方は当時のアメリカの白人にはよくあるものだった。
 ラヴクラフト作品を容認するということは、彼の生きていた時代の考え方を理解するということ、彼が抱いていた人種偏見に対して「今では許されないけど、この時代の人だからしかたがない」と許容することを意味する。
 僕もラヴクラフトの抱いていた人種偏見には嫌悪を覚えるけど、彼の生きた時代を考慮して、しかたがないことだと思っている。
 もちろん、現代で同じことを言う奴がいたら許さないけどね。

「インディアン」という言葉は偏見? そうかもしれない。でも、1940年代の人間がそういう言葉を使うことは許容しなくちゃ。
 昔の人間の偏見を許容できないということは、ラヴクラフトを許容できないってことになっちゃわないか? それも「クトゥルー・ミュトス・ファイルズ」なんて本を作ってる編集者が?
 そのへんの葛藤がまるで感じられないんだよなあ、この文章からは。

 あと、結局、「インディアナポリス」はどうなるんですか?(笑)
  


Posted by 山本弘 at 17:06Comments(22)差別問題