2012年04月23日

山本弘をめぐるデマ(4)

 もちろん、こうしたデマの中には、悪意による捏造も多いだろう。「山本弘はと学会の利益を独占している」とか「トンデモ本大賞の壇上で『新しい歴史教科書』を罵った」なんてのは、明らかに故意に創作されたデマだ。
 その一方、書いた本人も「山本弘はこんなことを書いていた」「あの本にはこう書いてあった」と本気で信じている例も多いようだ。偽記憶症候群(False Memory Syndrome)というやつである。
 偽記憶症候群については、すでに本で何度も取り上げている。これは精神病による妄想とはまったく違う。偽記憶は健康な人間にもしょっちゅう起きていることなのだ。
 あらたに書くのは面倒なんで(笑)、『百鬼夜翔』シリーズの一編、「茜色の空の記憶」から引用させてもらう。

 千絵は微笑んだ。「暗示なんてだいそれたもんじゃない。些細なきっかけで記憶なんて簡単に変わってしまうものなのよ。見たものの大きさ、色、美しさ、時間、場所……何もかもね。人間は常に自分の記憶を書き換えながら生きていると言ってもいいわね」
「でもそれって、日常生活の中のちょっとした思い違いってやつでしょ? もっと強烈な体験だったら、それこそ記憶に強く焼きついて変化しないんじゃないですか?」
「それがそうでもないのよ。一九八六年にスペースシャトルのチャレンジャー号が事故を起こした時、ある心理学者がこんな実験をやったの。事故の翌日、学生たちに『どのように事故のニュースを知りましたか?』というアンケートを出して、その答えを回収したの。それから二年半後、その学者は同じ学生たちに同じ質問をした。するとどうだったと思う? 最初のアンケートの結果と同じものはひとつもなくて、三分の一以上がとても不正確だったの。
 ある学生は、最初のアンケートでは『授業中に何人かの学生が入ってきて、事故について話しはじめた』と書いていたのに、二年半後に同じ質問をされると、『寮の自分の部屋でルームメイトといっしょにテレビを見ていたらニュース速報が流れた』と書いたの。本人は二年半前に自分が書いたアンケートを見せられて、とても驚いたそうよ。確かに自分の筆跡なのに、そんな記憶がまったくない、自分が覚えているのはルームメイトとテレビを見ていたことだって」

 ちなみに、このチャレンジャー号事故についてのエピソードは、E・F・ロフタス&K・ケッチャム『抑圧された記憶の神話』(誠信書房)から引用した。心理学者であるロフタスはこう言っている。

「記憶は手を触れることのできる固形物というよりも、雲や蒸気のように、脳の中を漂うものである」

 この見解には同意せざるを得ない。僕自身、何度か偽記憶を経験しているからだ。昔見たテレビ番組の中に、確かにあったと思っていたシーンが、再放送で見たら無かったのには驚いた。
 だから、「あの本には確かこう書いてあった」と思っても、うかつにその記憶を信じてはいけないのである。
 たとえば「この作品のタイトルが知りたい!@SF板」というスレッドで、こんなのを見つけたことがある。

・日本人作家の短編集。それほど古くはないはず。ハードカバーかもしれません
・以下の三つのような話が載っていたと思います
・実験で「この宇宙は偶然出来たもので、すぐに消える」と知って焦っている男の話
・犯人を捕まえた刑事が、心の中で「殺してやろうか」と思う話
・世界が崩壊してしまったが、少年と出会った少女が希望を見出す話

 えー、1番目のは「闇が落ちる前に、もう一度」、3番目のは「審判の日」だと思うんだけど、2番目のは何ですか(笑)。そんなの、書いた覚えないぞ。
 1番目と3番目があるからまだ分かるけど、2番目だけ見せられても絶対に分からない。作者でさえ。
 これなど、間違ってはいるものの、まったく悪意は感じられない。純粋な記憶違いなのだ。しかも何十年も前の本ならともかく、『審判の日』が出たのは2004年、この発言は2009年なので、5年前の記憶なのである。たった5年で、人の記憶はここまで改竄されてしまうものなのだ。

 当然、こうした記憶の改竄は僕の作品にだけ起きるものではない。他の人の作品に関してもしょっちゅう起きている。
 僕はmixiの『SF(Science Fiction)』というコミュに入っている。その中には「こんな本知りませんか??」というトピがある。その名の通り、よく思い出せない作品について質問するというものだ。僕もちょくちょく回答している。
 それを読んでいると、人間の記憶というのは実にいいかげんで、本人に悪意がなくても、簡単に歪曲や捏造を生み出してしまうことがよく分かる。ジャック・ウィリアムスンの『ヒューマノイド』の舞台が「未来のソビエト連邦」になってる人とか、ロイド・ビッグル・Jr.の「記念碑」をなぜか「ラングリ興亡史」というタイトルで記憶している人とか。
 同じような趣旨の『図書館探偵☆LD』というコミュにも入っているのだが、こっちも面白い。質問者の曖昧な記憶を元に、「この人が言っているのはどの作品のことなんだろう?」と頭をひねるのが、クイズみたいで楽しい。

 だから、記憶が違っていること自体は、ちっとも悪いことではない。それは誰にでもあることなのだから。
 しかし、その間違った記憶を元に誰かを批判するのは悪いことである。
 なぜなら、それは表面上、悪意による中傷とまったく区別がつかないからだ。

 批判を書くなとは言わない。僕の作品が嫌いなら、いくらでも批判していただいてけっこう。言論の自由というものである。
 しかし、その前にソースを確認するぐらいの手間はかけていただきたい。本当に僕の本にそんなことが書いてあるのかを。
 それはあなたの脳が捏造した偽記憶ではないのか。
 これは、山本弘批判を書こうと思っているあなたのためを思って言っている。間違ったことを書いて笑いものになるのは、僕ではなくあなたの方なのだから。
  
タグ :SFデマ


Posted by 山本弘 at 16:41Comments(7)メディアリテラシー

2012年04月23日

山本弘をめぐるデマ(3)

 mixiでも何度かあった。たとえば、『トンデモ本の世界』の中に「菜食主義より肉食のほうが栄養バランス的に合理的」と書かれている、と言っていた人がいた。やはり、そんなことはどこにも書かれていないのだが。
 メールでもたまに来る。たとえば3年前に来たメールは、僕の本のどれかに「重い物体は軽い物体よりも引力が強く働くので早く落ちる」と書いてあったと主張していて、それについて質問してきた。僕がそんな非科学的なことを書くわけがないのだが。
 多いのはやはり2ちゃんねるである。原文を正しく引用しているものはいいのだが、誰かが記憶に基づいて「山本弘はこう書いていた」「こう言っていた」と書いた場合、かなり高い確率で間違っているのである。そんなこと書いてなかったり、あるいは、近いことは書いているが意味がぜんぜん違ってたり。

 たとえば、僕が「『妖魔夜行』やその他の小説では旧日本軍が南京で酷いことをした、朝鮮人の従軍慰安婦に対してひどいことをした、などといった捏造話をしつこく記載している」と批判していた奴がいる。
 僕は『神は沈黙せず』で南京大虐殺についてかなりページを割いたが、『妖魔夜行』では取り上げていない。唯一、「魔獣めざめる」で、ちらっと「南京大虐殺」という単語が出てくるだけだ。そもそも、「魔獣めざめる」の主要な題材は昭和20年3月10日の東京大空襲──アメリカ軍による日本人大虐殺なのである。空襲で愛する人を殺された妖怪が現代によみがえり、アメリカに復讐しようとする話なのだ。
 従軍慰安婦に至っては、『妖魔夜行』でも他の小説でも、一度も取り上げたことがない。「しつこく記載している」と言うのなら、どの本の何ページなのか言っていただきたいものだ。

 また、これは僕だけではなく時雨沢恵一氏を貶めるデマなのだが、こんなのがあった。

時雨沢恵一はギャラクシー・トリッパー美葉をパクってキノの旅を書いたんだぞ
弘が時雨沢を締めたらしぐれ沢がビビって謝ったので弘は太っ腹なところを見せて受け入れた
トンデモだ!ちがう、これはSFだ!とかいう本より


 僕が『キノの旅』と『美葉』の関係について触れているのは、『トンデモ本? 違う、SFだ! RETURNS』(これが正しいタイトル。書名からして間違いまくってる(笑))の178~180ページ、「パクリはどこまで許される?――あの名作の元ネタはこれだ!」という項の終わり近くの一部である。正しく引用しよう。

 最後に、個人的に大変に感激したエピソードを紹介したい。
 時雨沢恵一『キノの旅』(電撃文庫・〇〇年)という小説がある。主人公のキノが、喋るモトラド(バイク)のエルメスと世界を旅して、様々な国を訪れるという寓話的な作品。けっこう人気があり、アニメにもなった。
 この小説を読んだ時、「なんだか『美葉』みたいな話だな」と感じた。『ギャラクシー・トリッパー美葉』(角川スニーカー文庫・九二年)は僕の小説。ヒロインが喋る巡航ミサイルのルーくんにまたがって宇宙を放浪し、いろんな変な異星人の住む惑星を訪れるというコメディだ。もっとも、『キノの旅』との類似は偶然の一致だろうと思っていた。
 だもんで、二〇〇五年の秋に初めて時雨沢氏とお会いした時に、「『サイバーナイト』とか大好きでした」と言われて仰天したもんである。
「『美葉』も読んでました。だからエルメスが喋るのはルーくんの影響なんです」
 そ、そうだったのかーっ!? エルメスの元ネタはルーくんか! まさか本当にそうだったとは思わなかったよ。
 もちろん、これはパクリなんかではない。読み比べてみれば分かるが、『キノの旅』は『美葉』とモチーフが似ているだけで、まったく違う作品である。それどころか、僕は自分の作品の影響を受けた若い作家がデビューし、素晴らしい作品を書いてくれたことを誇りに思う。作家として、こんなに嬉しいことはない。
 さらに言うなら、『美葉』だって僕の独創ではない。主人公のキャラクターは吾妻ひでお『スクラップ学園』(153ページ参照)に大きな影響を受けているし、地球人が宇宙を放浪して変な異星人と出会うというモチーフは、ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』(41ページ参照)がヒントだ。

 僕ははっきり「もちろん、これはパクリなんかではない」と言っているのだが、なぜこれがパクリだということにされるのだろうか? もちろん僕が時雨沢氏を締めたとか、時雨沢氏が謝罪したなんて事実もない(パクリじゃないんだから当然である)。
 だから今度から、「時雨沢は山本からパクった」とか言う奴がいたら、遠慮なしに「バカ」と言ってやってほしい。「そんなことどこにも書いてねーよ、てめーの妄想だろ、バカ」と。

 ちなみにこの「パクリはどこまで許される?」という文章の冒頭で、僕は「2ちゃんねるは役に立たん!」「ほとんどの発言者が記憶と思いこみと悪意だけで書き殴っているために、ガセネタ、間違い、捏造があまりにも多いのである」と書いている。特に筒井康隆氏のパクリ疑惑に関しては、そのすべてが、ネタ元とされる作品より筒井氏の執筆時期の方が先だった(唯一の例外は、本人が盗用を認めて謝罪・封印した短編「邪学法廷」だが、逆に、筒井氏を批判する2ちゃんねらーは誰もそれを読んでいないようだった)。
 その文章がまた2ちゃんねるで歪曲され、新たなパクリ冤罪事件が生まれているのだから、まったく処置なしである。
 改めて言う。2ちゃんねるは役に立たん!
  
タグ :デマSF


Posted by 山本弘 at 15:34Comments(13)メディアリテラシー

2012年04月23日

山本弘をめぐるデマ(2)

 プロになってからもいろんなデマを流されたり、本に間違ったことを書かれたりした。
 たとえば『と学会白書vol.1』(イーハトーヴ出版・1997)に、超常現象研究家の故・大田原治男氏が寄稿された「と学会に反論する」という文章である。

 と学会では、非常に高度な問題を扱った場合は、間違いが多いと言われている。と学会会長の山本弘氏は、夢で予知するなどとはトンデモない事であると、以前トンデモ本に載せたことがある。(後略)

 当時出版されていた『トンデモ本の世界』『トンデモ本の逆襲』『トンデモ超常現象99の真相』、さらに自分の小説まで読み直してみたが、僕は「夢で予知するなどとはトンデモない事である」とも、それに近いことも書いていなかった。大田原氏は僕が言ってもいないことに対して反論していたのである。
 この時は「そそっかしい人がいるなあ」という印象だった。だが、その後も続々と同じようなことを言う人が現われた。

 (前略)彼らが「トンデモ学会」という会を発足させた最初の動機は、彼らの著書によれば、「真面目な本が売れないのに精神世界の本がバカ受けに売れている。だから彼らも精神世界の範疇の本を書く」というのである。未知なる分野に対して、それを究明するために著述するのではなく、金儲けのために著述するというのである。
――楓月悠元『全宇宙の真実 来るべき時に向かって』(たま出版・1998)

 そんな「動機」はどの本にも書かれていない。

 山本氏が以前に書いた『トンデモ超常現象99の真相』(P103~104)の中で、飛鳥説によるヤハウェの公転軌道を、地球と全く同じ軌道として、だからこそ「ケプラーの法則」から見ておかしいと記載しているが、あのままでいいのか?(後略)
――飛鳥昭雄『飛鳥昭雄ロマン・サイエンスの世界』(雷韻出版・2000年)

『トンデモ超常現象99の真相』の該当ページには「ケプラーの法則」なんて言葉は出てこない。

 当然、ネット上にもこういう人間はよくいる。たとえば、検索していて偶然に見つけてしまったのが、『神は沈黙せず』のデタラメなレビュー。書かれたのは2007年らしいが、僕が気づいたのは最近である。

またストーリーの構造から言えば、結局主人公の最終到達点は「神がいようがいまいが自分には関係ない」となるのだけれど、これって中盤で主人公が批判している宗教家の考えと同じだと思うんだよね。主人公はこの宗教家に対して激しく神が実在する証拠を要求する。宗教家は終いには「神が本当に実在するかどうかは我々の宗教にとって重要ではない」と言い出す。主人公はこれを聞いて「宗教にとって神こそが何よりも重要のはずなのに、それがどうでもいいとは何事か」と唖然とする。(この辺うる覚えなのであしからず)。

中盤で出てくる宗教家も、主人公の最終到達点もどちらも「神はいてもいなくてもいい」だ。両者が同じことを言っているのに山本は気づいていないのかもしれない。山本は宗教を超常現象やオカルトという側面からしか見ていないからこういうことになる。

宗教の本質はその時代時代の社会規範や経験則の集大成であり、現代の法律や科学が担っている部分にある。オカルト的要素は味付けに過ぎないわけで、その意味で「神の実在性」もさして重要なことではないわけだ。まあ宗教家にストレートにこれを言うと激怒するが、彼らの言うことをまとめれば結局そういうこと(「神は宗教にとって本質ではない」)にならざるを得ない。言い方を変えれば、社会規範と経験則の集合体を「神」と擬人化しているのだから、大事なのは集合体の方であって、擬人化された偶像ではない。大切なのは集合体である「教え」の方であって、偶像の方は実在していようがいまいがかまわないわけだ。

ところが山本の代弁者たる主人公には、宗教家が神の実在性を”どうでもいい”などということは常軌を逸した暴言としか解釈できない。山本弘は疑似科学批判が本業(?)だから宗教をオカルト的な側面からしかみれないのは仕方ないのかもしれないが、その偏狭さが小説家としての能力にも足かせをはめてしまっている。


 はい、『神は沈黙せず』を読んだ方なら、どこがおかしいかお分かりですね。
「神が本当に実在するかどうかは我々の宗教にとって重要ではない」などと主張する宗教家なんて、この小説には出てこない!
 当然、主人公が「宗教にとって神こそが何よりも重要のはずなのに、それがどうでもいいとは何事か」とか「常軌を逸した暴言」などと思うくだりもない。そもそも主人公が宗教家に対して「激しく神が実在する証拠を要求する」場面などない。7章で主人公がオカルト信者や宗教関係者に問いかけた質問は、「神が実在するなら、どうして悪がはびこるのでしょう?」というものである。神が実在する証拠など要求していないのだ。

 ちゃんと間違いを指摘してくださっている方もいた。
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20080924/1222297593

 まあ、僕も小説のストーリーを誤って記憶していることはよくある。しかし、長々と書かれた『神は沈黙せず』批判の主要な論拠が、小説の中に存在しないというのは、あまりにひどいんじゃないだろうか。「この辺うる覚えなのであしからず」と書くぐらいなら、該当箇所を確認するぐらいの手間をなぜかけない?
  


Posted by 山本弘 at 15:09Comments(8)メディアリテラシー

2012年04月23日

山本弘をめぐるデマ(1)

 以前、こういう文章を書いたことがある。

山本弘をめぐるデマ
http://homepage3.nifty.com/hirorin/dema.htm

 これを書いたのは2004年のことで、この時点でもうずいぶんいろんなデマが流れていた。その後も様々なデマが流れた。多すぎて全部は書ききれないほどだ。

 僕が自分に関するデマに最初に遭遇したのは、1980年代なかばのアマチュア時代にまで遡る。
 僕は1977年に「スタンピード!」で『奇想天外』誌のSF新人賞で佳作になった。本来ならそれをきっかけに本格的にプロ作家としてデビューすべきだったのだが、できなかった。
 作品が認められ、「これでプロになれる」と有頂天になった反面、「次はもっといい作品を書かなければ」という強迫観念にとらわれ、ぜんぜん小説が書けなくなってしまったのである。原稿用紙を一枚書いては気に入らなくては破り、また一枚書いては破りという繰り返しで、ぜんぜん前に進めない。
『奇想天外』にはその後、確か1本だけ短編を送ったと記憶している。自分でもひどい出来だと分かっていて、当然、ボツを食らった。
 その後約10年間、僕は同人誌に年に1~2回、短編を発表する程度だった。同人誌ならさほどプレッシャーがきつくなく、書くことができたのだ。それでも執筆ペースはひどく遅かったが。
 この間、商業誌に何か原稿を送ったのは、80年代の前半、正確に何年だったかは忘れたが、『SFマガジン』の新人賞に応募して落選したことがある程度だ(ちなみに、その時に書いた話を大幅に改稿したのが、『アイの物語』に収録された「ブラックホール・ダイバー」である)。他には、『ファンロード』によく投稿してたのと、『SFマガジン』の読者投稿ページ「リーダーズ・ストーリイ」にショートショートを何度か送ったぐらい(ちなみに2回載った)。
 そうそう、『アニメック』が『ガンダム』論を募集した時に、ニュータイプをラマルキズム的新人類と位置づける架空理論「あなたもニュータイプになれる……かな?」を書いて送ったら入選したっけな(1980年12月号)。
 だが、当然、そんなものはプロになるための活動ではない。あくまでアマチュア活動である。
 この時期、僕はプロになるための活動をほとんど何もしていなかった。モラトリアムというやつである。
 1988年、『ラプラスの魔』(角川スニーカー文庫)で、ようやくデビューを果たせた。思えば長い回り道だった。

 後になって知ったのだが、80年代のSFファンダムでは「山本弘が雑誌に作品を発表できないのは、不穏当な発言をしたのでSF界から干されたからだ」というデマが流れていたのだ。
 初めて耳にした時はびっくりした。教えてくれたのは同じ同人誌『星群』に所属していた年長のSFファンである。その人は完全にそのデマを信じていた。「いや、そんなことないですけど」と否定したら、「いや、君は知らないだろうけどね……」と、わけ知り顔で説明しようとされたのには参った。
 干されてる本人が干されてることを知らないなんてことがあるか!
 そもそも、作品を送ってないのに、どうやって干されるっていうの? そんなの論理的に不可能だろう。
 他にも何人もの人から同じ話を聞かされた。関西だけではなく、関東のファンダムでも広がっていたようだ。みんなそのデマを信じていた。中には「複数の人から聞いた」という理由で信憑性を覚えている人もいた。複数の人が言ったから正確というわけでもないだろうに。
 そして当然のことながら、その中の誰も、「不穏当な発言」とは何なのか、僕がどこでそんな発言をしたのか、どこから流れてきた話なのかを言えなかった。(今なら「ソースキボンヌ」とか言うところだ)
 SFファンだからといって、思考が論理的というわけではないのである。

 まあ、当時から僕はそういうキャラとして定着していたんだろう。『星群』の合評会(会誌が出た後、必ず作品を批評する会が開かれた)で、みんなが慣れ合いで当たり障りのない感想を述べ合っている中、僕だけが他の人の作品をずけずけと批判したりしていたからだ。一度、あまりにひどい作品があったので、「何でこんなレベルの低い作品を掲載したんですか!?」と、編集長に食ってかかったこともある。
 今から思えば、そもそも同人誌に載るアマチュアの作品がそんなに傑作ぞろいのわけがないのだから、大人げない態度だったとは思うが。
 誰が最初にデマを流したのかは、もちろん確かめるすべはない。誰かが「山本ってああいうことを言うからSF界から干されたんじゃねーの」と冗談で言い出し、それがいつのまにか事実として定着したんじゃないか……という気がする。

 ちなみに『奇想天外』の新人賞でいっしょに佳作になった一人が新井素子さんである。授賞式で初めてお会いした時はまだ高校2年生で初々しく、「この子があんなすごい小説書くのか!」と驚いたものだ。
 その後、足踏みしている僕を尻目に、新井さんは『いつか猫になる日まで』『星へ行く船』『ひとめあなたに…』『グリーン・レクイエム』『二分割幽霊綺譚』などの傑作を次々に発表、たちまち人気作家となる。当時のSF界ではアイドル視されていて、ゼネプロが吾妻ひでおデザインの新井素子メタルフィギュアを出したこともあるほど(僕も買ったけど、どこかに行っちゃった。残念)。若い読者からは「素子姫」と呼ばれていて、『ファンロード』が「素子姫特集」を組んだこともある。
 僕も新井さんの作品の大ファンで、『…絶句』あたりまではほぼ全作品を読んでいた。中でも、地球最後の日々の人間模様を描いた『ひとめあなたに…』は、今でも個人的に新井さんの最高傑作だと思っている。復刻されているので、ぜひお読みいただきたい。チャイニーズスープ!

 もっとも、僕はずっと京都に住んでいて、ぜんぜん新井さんにお会いする機会などなく、遠くから片思いしているだけたった。だもんで、結婚されたと聞いた時にはショックだった……。
 てなことを書いて『ファンロード』に投稿したら、それが後で「山本弘は新井素子に告白してフラれた」というデマに発展していた(笑)。してねーよ! 授賞式の時以来、10年以上、顔を合わせてもいないから。
  


Posted by 山本弘 at 15:01Comments(5)メディアリテラシー