2008年12月12日

ゲッペルさんのいない人

 ずいぶん遅くなったけど、迷った末に買っちゃいましたよ、『さよなら絶望先生』第十五集限定版オリジナルDVD付き。3470(さよなら)円もするやつ。シャレで定価決めんなよ(笑)。
 でも、好きなんだよね、『絶望先生』。
 まずDVDから説明すると、やっぱり面白かった。特に今回は原作のハニートラップの話なんで、中国製のパチモン『らき☆むた』を正確にアニメで再現してみせているのが大笑いだった。

 今回、本編でいちばん面白かったのが、ゲッペルドンガーの話。
 自分がもう一人の自分を見るのがドッペルゲンガー。それに対し、もう一人の自分が自分を見るのがゲッペルドンガー。
 何かしょーもないことに熱中していた時、ふと我に返り、熱中している自分を「何やってるんだ」と、背後から一歩引いて冷ややかに見てしまう。それがゲッペルドンガーなのだという。(晴美の場合、やおいマンガを描いていて、男の乳首にトーンを貼りながらにやついている瞬間に現われる)
 ああ、あるある、ゲッペルドンガー。
 確かに、ゲッペルさんがずっと背後にいると、何でも冷ややかに見てしまい、素直にものごとを楽しめない。だから普段はゲッペルさんはいない方がいい。でも、まったくゲッペルさんが出てこないと、これまた歯止めがなくなって暴走してしまう。
 ゲッペルさんがいなくなった糸色先生は、どんどん痛い人になってゆく。つまり「痛い人」というのは、ゲッペルさんがいない人、自分を客観的に見ることができない人なんである……というお話。
 なんか、ギャグマンガなのにすごい真理を突いてくるよね、『絶望先生』。 そこがいいんだけど。

 確かにいるよなー、ゲッペルさんのいない人。「もうちょっと自分を冷静に見てみたら」とか忠告しても、ぜんぜんできない人。僕の出入りしているコミュでも、あの人とかあの人とか。
 どんなに他人からバカにされても、ゲッペルさんがいないと、なぜバカにされてるのか理解できないんだろうな。だから反省の生まれようもなく、同じことを繰り返すわけだ。
 かく言う僕も、思い出して見ると、若い頃はゲッペルさんはいなかったなあ。どう考えたって他人からは不愉快にしか見えないことを、平気でやってたもの。あー、いたたたた。

 今回は他にも、「雨降って地陥没」「主語霊」「駄目イタコ」など、「あるある!」というネタが続出。確かに「私」と言うべきところを「私たち」と言っちゃう「主語のデカい人」とか、「原作者は泣いているぞ」などと勝手に霊媒する人とか、いるよね。
 今回、いちばんの名台詞だと思ったのは

>「犬はササミの事しか考えていない!」

 そうだよなー。犬は考えてないよなー。
  

Posted by 山本弘 at 18:31Comments(3)マンガ

2008年12月10日

ポメラの使い心地


 先月、話題のポメラを買った。

http://japanese.engadget.com/2008/11/09/pomera-dev/

 大きさは上の写真を見ていただきたい。表示する文字のサイズは3段階に切り替えられる。3枚目の写真では、見やすいようにいちばん大きな文字で表示している。
 一見、ちゃちそうに見えるキーボードだけど、意外にしっかり打てる。操作法は普通にパソコンで打つのとほとんど変わらない。マウスが無いので、コピーや移動がちょっと面倒というぐらいか。(コピーしようとして、いつもの癖で右手がマウス探してたのには、自分でも笑った)
 大きさも手ごろだけど、電源ボタンを押して起動に2秒しかかからないというのは、ノートパソコンにはない利点だ。
 これで打った文章はパソコンで読みこめる。接続するのも面倒な設定手順不要。USBケーブルでパソコンにつなぎ、ポメラのメニュー画面で「設定」→「PCリンク」と進むだけ。
 記録できるのは、1ファイルにつき8000文字分(原稿用紙20枚分)。6ファイルまで記録できるから、最大で原稿用紙120枚分まで書けることになる。

 1か月ほど使ってみての感想。
 ネットでの前評判では、「容量が少ない」と文句を言っている人が多かったのだが、その点はまったく苦にならなかった。そもそも原稿用紙20枚分もいっぺんに書くことなんてないからだ。 出先でちょっと下書き代わりに使うぐらいなら十分である。どうせ後でパソコンに落として清書するんだし。 今のところ、容量が50%を超えたことは一度もない。
 むしろファイル数が6というのが、ちと少なすぎる気がした。パソコンに落とした分から順次、消していかないと、すぐにファイルが足りなくなるのだ。いろんな仕事を抱えている人なら、ファイルが7以上必要な場合も多いだろう。  難読字はJISコードで打ちこまなくちゃいけないんで大変だけど、これも下書きでは空白にしておいて、清書の時に書き加えればいいだけのことだ。

 何がいいって、文章を書くことに対する心理的な敷居が下がったことだ。パソコンだと起動までの時間が長いから、気楽に書きはじめることができない。机の前に座って、電源ボタンを押して、「さあ、これから書くぞ」という心構えが必要なのである。
 それがポメラだと、いつでもどこでもすぐ起動させられる。いちいち仕事場に行かなくても、食卓の上でも、あるいは寝そべってても書けるのだ。これのおかげで執筆量は何パーセントか確実に上がったと思う。
 先月の仕事にしても、連載『地球移動作戦』『去年はいい年になるだろう』の原稿は、半分ぐらいポメラで打った。家でざっと軽く打って、仕事場でパソコンに落とし、清書するのである。mixi日記なんかも、かなりポメラで打っている。このスタイル、癖になりそう。
 ちなみに今あなたがお読みのこの文章も、ポメラで打った文章をパソコンで清書したものである。

 メーカーにあれも付けろこれも付けろと要望を出している人もいるらしい。しかし、手軽にメモ感覚で打てるというのがポメラの利点なので、あまり余計な付帯機能を付けると、かえって利点を殺すことになりかねないと思う。シンプルなのが魅力なのだ。
 これ以上のものを望むなら、それこそノートパソコンを買えばいいだけのことではないか?

 あっ、でも国語辞典は付けてほしかったかも……。
  

Posted by 山本弘 at 15:57Comments(3)日常

2008年12月10日

VOWネタ

 街で見つけたヘンなもの。


 こんな列車ごと谷底に転落しそうな不吉な名前のマンションは嫌です。


 こんな貼り紙があるにもかかわらず、前に駐車してる車がありました。重しつけられちゃうんでしょうか。

  

Posted by 山本弘 at 15:26Comments(0)日常

2008年12月10日

毬江がテレビに出なかったわけ

『活字倶楽部』2008年秋号の有川浩ロングインタビューの中で、アニメ版『図書館戦争』のこんな裏話が披露されていた。

有川 (中略)例えばアニメで、小牧と毬江のエピソードが地上波で放送されなかったのは、毬江が聴覚障害者だという設定だったからなんです。毬江のエピソードはTVではできません、ということがアニメ化の大前提だったんです。それを了承してもらわないと『図書館戦争』はアニメ化できません、と真っ先に言われたことがとても衝撃的でした。(後略)


 やはり。原作では印象的なキャラクターである毬江がテレビに出てこなかったのは、そういう裏があるのではないかと思っていたのだが。
 ちなみに、DVDの3巻には毬江の登場するテレビ未放映話「恋ノ障害」が収録されているのだそうだ。
 これがアニメ版の毬江の設定。声は植田佳奈か。うーん、テレビで見たかった。

 原作を読まずにテレビ版しか見ていない人は、そもそもメディア良化委員会が何のためにどんな基準で本を狩っているのか、よく分からなかったのではないだろうか。単純に体制に批判的な本だけを弾圧していると思っていたのではないか。
 原作で重要な役割を果たすのが、『レインツリーの国』という小説である。主人公の笠原郁は高校時代、この本を書店で買おうとして、良化隊に取り上げられそうになった。そこを堂上に助けられたことが、彼女に図書隊への入隊を決意させるきっっかけになったのだ。
『レインツリーの国』は『図書館戦争』のスピンオフ作品として、作者自身によって執筆された。お読みになればお分かりだろうが、美しい恋愛小説である。しかし、ヒロインが聴覚障害者であり、「違反語」が使われているという理由で、『図書館戦争』の世界ではこの本が狩られているのである。

『図書館戦争』の世界は絵空事ではない。現実に起きていることだ。この話をリアリティがないと思うのは、出版界や放送界の実状を知らない人だろう。
『図書館戦争』の世界と違うのは、「違反語」リストを作り、それに従って言葉を狩っているのが、政府が作った良化委員会ではなく、出版界や放送界自身だということ。「メディア良化委員会」とは、実はメディアそのものなのである。
 僕自身の体験を書こう。
 2006年10月、 『TVブロス』のカンヌ映画祭についての記事の中で、ライターが露骨な差別表現を使ったという事件があった。ライターもライターだが、通してしまった編集者も不注意である。要するに差別問題に関する知識も関心も自覚もまるでなかったわけで、問題になるのは当たり前だ。
 ところがその一件で、大手出版社がいっせいに過剰反応した。それまでOKだった、どうということはない表現にまで、過敏にチェックが入るようになったのだ。
 そのとばっちりが僕にも来た。ちょうど『神は沈黙せず』の文庫版のゲラチェックをやっていたのだが、いったん戻したゲラに、校閲者による膨大な数のチェックが入って戻ってきたのである。どれも単行本ではまったく問題にならなかった箇所だ。修正しろという命令ではないが、あらためて表現に一考をお願いする……というのである。
 どんな表現にチェックが入ったか、実例を挙げよう。

>ネットに流れた情報だけを盲信した人々が
>精神病院に入院させられているとか
>地球が狂いはじめているのではないだろうか
>狂信的な熱情にかられて行動した
>たちまち悪臭漂うスラムと化した
>自分の中にも狂気がひそんでいる可能性
>強いボスに盲従する猿たち
>いみじくもドーキンスが言ったように、「盲目の時計職人(ブラインド・ウォッチメイカー)」なのだ。
>兄は狂っているのだろうか。
>よく発狂しなかったものだと
>悲しみのあまり狂乱したことも
>怒り狂った群集によって
>頭のおかしい人間が行なった未熟な犯行にすぎず
>ポルターガイストの荒れ狂う施設 !
>熱狂的な加古沢ファン
>精神錯乱が多発した
>ファンの狂騒に踊らされることは決してなかった
>狂気と正気の境界線をどこに置くか
>狂気に蝕まれている自分に言い聞かせた

 これでもチェック箇所のごく一部にすぎない。 つまり「狂」「盲」という字すべてにチェックが入っているのだ。たまらん。
 だいたい『ブラインド・ウォッチメイカー』を他にどう訳せと? つーか、「ブラインド」はOKで「盲目」はダメという根拠は何だ?
 いちばん笑ったのは、

>私はぽかんと口を開けた。盲点だった。

「盲点」にもチェックが!?(笑)そりゃ盲点だったわ。いやもうこれは床にひっくり返って笑ったよ。 のちに「七パーセントのテンムー」を書いた時に、ギャグのネタにさせていただいた。

>馬丁の娘
>老婆の横顔

 という部分にもチェックが入った。「馬丁」も差別語とは知らなかった。つーか、これをどう言い換えろというのだ?
 なぜ「老婆」が差別語認定されているのか、編集さんも首をひねっていた。おそらく、かつて「婆あ」という侮蔑的表現が問題になったことがあって、そこから拡大解釈して「婆」という漢字すべてを自粛することになったのではないかと想像するが、今となっては真相は分からない。

>電波系
>サイコキラー

 という単語にもチェックが入った。「サイコ」という言葉がまずいらしいのだ。冗談じゃない! ヒッチコックの映画はどうなるんだ!? だいたい、「サイコキラー」なんて言葉、日常的に使ってるだろ。

>かなり節操のない日本的キリスト教徒だったようだ

 という部分にもチェック。「『日本のキリスト教徒は節操がない』と誤読されるおそれがあるのでは?」というのである。いねーよ、そんなひねくれた誤読する奴。お前だけだよ。

>日本各地の福祉施設に収容された何千人もの子供たち

 という部分にもチェックが入った。「収容」という言葉がいかんので「預けられた」に改めろと指示された。なぜ? 分からん。
 さらに笑えたのが、アメリカ国内でイスラム原理主義者やキリスト教右翼によるテロが起きるというくだり。校正者の意見によれば、

「フィクションですが、偏見を助長するおそれがあるのでは?」

 アホかああああーっ!
 実在の集団による犯罪行為をフィクションの中で描いてはいかんというのなら、スパイ小説もポリティカル・フィクションも書けんようになるわーい!
 出版業界で生きる人間が、自分の首絞めてバラバラにして埋葬するようなことを言い出すんじゃねえええーっ!
 こんな箇所にもチェックが入った。

 あるいは、ネットでベストセラーになったコミック『サンバーン』の作者、三崎純へのインタビューという話もあった。参考のために読んでみた私は、すぐに編集者に電話をかけ、「この仕事は別の人に回して」と依頼した。身障者の少女をレイプし、いじめ抜いた末に殺害する主人公の姿と、それをギャグを交えてあっけらかんと描く作者の姿勢は、私には反吐が出そうなほど不快だった。紙の本が出版物の主流で、出版業界のモラルが守られていた時代には、とうてい陽の目を見なかった作品だ。こんなものを描く人物がいることにも、それを夢中になって読む大衆がいることにも、やりきれなさを覚えた。

 だからさ、主人公は差別意識に対する激しい怒りを表明してるんだよ? あんたちゃんと文章の意味、理解してる?
 25章のこんなくだりにもチェックが、

 テキサス州アマリロの市庁舎では、玄関ホールの天井から長さ五メートルもある巨大な足がぬっと突き出した。職員や市民を驚かせただけで、すぐに消えてしまったものの、監視カメラには人間の一〇倍ぐらいのサイズがある白い素足がはっきり映っていた。明らかに黒人の足ではないことから、白人優越主義者はまたもや「神は白人であるという証明だ」と主張した。
 ところがその四日後の夕刻、今度はニューメキシコ州フォート・サムナー郊外の住宅街に、巨大な裸の黒人が出現した。それは一〇人以上の目撃者たちの前で、身長一・二メートルから六メートルまで大きさを自由に変えたという。今度は黒人たちが「神はやっぱり黒人だった」と主張する番だった。

 どこがまずいと思います?
 なんと、「黒人」という単語すべてにチェックが入ってるのである! ええー、「黒人」もNG用語!? んなアホな!
『神は沈黙せず』をお読みになった方ならお分かりのように、この小説には僕自身の、身障者差別・人種差別・民族差別に対する強い嫌悪が随所に反映されている。
 差別問題を扱うのだから当然、差別的発言をする人物も出てくるわけだが、それにすべてチェックが入った。「朝鮮の手先」「あつらは犯罪者ばっかりだ」とかである。
 だからさ、この小説は差別を糾弾してる内容なのに、何でびくびして自粛しなきゃならんわけ? おかしいじゃん!

 最初は笑ってたが、だんだん腹が立ってきた。
 この校閲者、自分では何も考えてない。機械的に「狂」「盲」という字を検索して鉛筆でチェックを入れているだけである。ある表現が差別に当たるかどうか自分で判断することを放棄し、著者に全責任を押しつけている。それはつまり、「私は差別問題なんか分かりませーん」「責任とりたくありませーん」と宣言しているようなもんではないか。
 そういう意識こそ差別なんだと、どうして気づかん!?
 でもって、これまで小説の中で何度も差別問題を描いてきた僕が、何で今さら糾弾を恐れなくちゃなんないんですかい!?
 こわくないよ、そんなの。万が一、人権団体に糾弾されたって、これまで自分が書いてきたものをずらっと並べて、「あなたの方こそ不勉強です。これを読んでください。僕はこういう作家です」と、逆に教育してやるよ。

 こうした「違反語狩り」が本当に差別をなくす目的ならいいことだろう。だが、現実は正反対だ。違反語リストを作って自主規制をしている人たちは、単純に言葉の言い替えで済ませているだけで、差別問題の本質など考えようとはしない。それどころか、障害者の抱える問題をリアルに描く作品や、差別を批判する内容の作品すら規制しようとする。
 違反語狩りは差別問題への真摯な取り組みなどではなく、正反対である。現実に存在する問題から目をそむけ、口をつぐむことで、被差別者についての正しい理解が広まるのを妨げ、間接的に差別を助長しているのだ。

『別冊 図書館戦争I』には木島ジンという作家が登場する。彼は反社会的、暴力的な作品ばかりを書いているが、婉曲表現ばかりで違反語をひとつも使っていないため、メディア良化法では取り締まることができない。彼は良化法に対する批判として、意図的にそうした小説を書き、社会に挑戦しているのである。
 木島ジンというのは嫌な奴だと思う。しかし、言っていることは正論だ。違反語さえ使われていなければいいという問題ではない。それは『レインツリーの国』を読めばよく分かる。
『レインツリーの国』と木島ジンの作品は正反対だが、同じことを訴えている。前者は違反語を使ってはいる差別的ではなく、後者は違反語を使っていないが差別的である。
 ある表現が差別的かどうかは文脈から判断するしかない。単語だけ取り出しても意味がない。こんな単純なことを理解できない――いや、理解しようとしない人間が大勢いる。

 繰り返す。『図書館戦争』はリアルな話である。銃撃戦こそないものの、僕らはすでに『図書館戦争』の世界で生きているのだ。
  

Posted by 山本弘 at 15:12Comments(10)社会問題