2008年06月28日

「地球人」の意味が分からない人


【断 潮匡人】「地球人」という不誠実
(産経新聞6月14日 コラム・断)

 5月21日に「地球を考える会」が福田首相に提言した。
 「まず、日本国内で地球愛確立の国民運動を起こすことだ。さらに、それを世界に広げるべく最大限の努力を払うことが必要だろう」
 愚生には意味不明だが、東大、京大、早慶の総長・塾長、読売やフジ、トヨタの会長と各界トップが名を連ねた提言だ。虚心に辞書で「地球愛」を引いてみた。案の定、載ってない。
 そこで「愛」を引く。「(1)親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり(以下略)」(広辞苑)。これなら分かるが、人間でも生物でもない地球を、どう愛せるのか。国民運動に加えて「世界に広げるべく最大限の努力を払うことが必要」なほど不自然な感情を「愛」と呼べるのか。

 あのー……。
 世の中には、山を愛してる人とか、海を愛してる人とか、バイクを愛してる人とか、カメラを愛してる人とか、電車を愛してる人とか、本を愛してる人とか、絵画を愛してる人とか、フィギュアを愛してる人とか、ゲーム・キャラを愛してる人とか、「人間でも生物でもない」ものを愛してる人が山のようにいるんですが。
 ちなみに僕の使っている小学館の国語辞典で「愛」を引くと、

①かわいがり、いつくしむ心。愛情。「子供への-」
②親しみしたう心。「親兄弟への-」 ③異性を恋しくおもう心。恋。
④物ごとをこのみ、それを大切におもう気持ち。「書物への-」

 とあり、④の定義からすると、地球を愛してもちっともおかしくないのである。

 だが、提言を受けた福田首相は納得したようだ。1週間後の各紙朝刊に全面広告の政府広報(外務省)を出した。推計で広告費は億単位にのぼる。
 首相発言の見出しは「【日本人=地球人】として誠実に。」。
 最後の句点同様、「地球人」の意味も分からない。これも辞書にない。ネット上には「特にSFで、宇宙人の対意語」とあるが、私たちが生きているのは、SF(空想科学)の世界ではない。
 日本人=「さかのぼれる限りの先祖から日本列島に住み、日本語を話している人」(新明解国語辞典)。この世に「地球語を話している人」などいない。地球愛も地球人も無意味で軽薄な偽善である。発想自体、不誠実きわまる。(評論家)

 おおー、「地球人」はSF用語ですか!?
「地球人」という言葉は辞典に載っていない、地球語を話している人などいない、とこの方はおっしゃる。確かにその通り。僕の使っている辞典にも「地球人」は載っていない。
 でも、国語辞典には「アメリカ人」の項もないって知ってました? 「アメリカインディアン」や「アメリカ合衆国」はあっても、「アメリカ人」はないんだよ。
 そう言えば、「アメリカ語」を話してる人もいないよね(笑)。
 他にも、国語辞典には「アジア人」「アフリカ人」などの項もない。「アジア語」や「アフリカ語」を話している人もいない。
 つまり、この人の論法によれば、「アメリカ人」「アジア人」「アフリカ人」という言葉もすべて、「無意味で軽薄な偽善」「発想自体、不誠実きわまる」ということになるわけだ。ふーん。

 さらに、潮氏がネット上で見つけたという「特にSFで、宇宙人の対意語」という定義について検索してみたら……。

地球人とは-はてなダイアリー

1.特にSFで、宇宙人の対意語として、地球に生息する人類のことをいう。
2.グローバリズムに基づき、国籍や人種を乗り越えて人類を包括する言葉。

 何だよ!? この場合の「地球人」が2の意味なのは明白じゃん!?
 あきれた。この人は2が読めないほどボケてるのか。それともいいかげんな引用をして読者を騙すことを何とも思っていない「不誠実」な人間なのか。
  
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Posted by 山本弘 at 16:38Comments(2)新聞

2008年06月27日

昔のマンガは面白い:『エリート』編

  別に今のマンガがつまらないというわけじゃない。でも、昔のマンガもけっこういいものが多いんだ。
 特に最近、埋もれていた昔の作品が復刻されることが多く、「えー、これってこんなに面白かったんだ!」と、目からウロコが落ちることが多い。
 先日、読んだのが、原作・平井和正/画・桑田次郎の『エリート』(マンガショップ)である。初出は『少年キング』1965年34号から1966年22号、その続編が『魔王ダンガー』という題で67年16号~67年31号まで連載されている。
 同じコンビで『少年マガジン』に連載されていた『8マン』が、桑田氏の銃刀法違反による逮捕で打ち切りになったのが65年13号だから、その4か月後ぐらいにスタートしていることになる。主人公・竜太郎の着用する戦闘服のデザインは、8マンに酷似している。
 僕は子供の頃、連載中に断片的に読んだだけ。ラストがどうなったかも知らなかった。そこで、2005年に復刻されたバージョンを読んでみることにした。

 滝竜太郎はマンガを描くのだけが取り得の、ぐうたらでお調子者の中学3年生。その竜太郎に、宇宙最古の超知性体アルゴールがコンタクトしてきた。
 アルゴールは人類を100万年も見守り続けてきた。人類が「神」と呼んできたのはアルゴールだったのだ。

「わたしの話をきくがよい。人類もいよいよ宇宙に進出するときがきた。
 だが、地球人類が、宇宙の平和をやぶるような兇悪な種族ならば、宇宙にのばなしにするわけにはゆかぬ。
 地球人類が他の宇宙種族と共に宇宙の平和をまもってゆけるかどうかを、ためさねばならぬ……そのときがきたのだ。
 合格しなければ人類は滅びる」

 アルゴールは地球人から3人の人間を選び、超人的な力を与えることにした。竜太郎はアルゴールによって潜在能力のすべてを覚醒され、普通の人間の5倍の知能、20倍の筋力を持つ「エリート」となる。
 他の2人は、アメリカ人の幼いジョン坊やと、大悪人のエルケーニッヒ・ダンガー。
 世界を征服することも可能なエリートの力。彼らがそれを正しく使えば、人類は栄える。しかし、誤用すれば人類は滅亡する……。
 そう、アルゴールは人類への審判を人類自身に委ねたのである。

 世界征服を企むダンガーと戦うため、竜太郎は超人的な知能を使って戦闘服を開発する。筋力を100倍以上に増幅し、反重力で空を飛び、様々な機能が隠されたすぐれものだ。
 対するダンガーが開発したのが、ペンシル・バニューム弾。ライフル銃から発射できる超小型の原爆である。ダンガーは竜太郎をおびき出すため、日本国内で原爆テロを起こす。それも何度も!
 たった1発のライフル弾によって、数千人が一瞬で虐殺されるという恐怖。その惨状が具体的に絵で描写される。桑田氏のスマートな絵柄のせいで、さほどグロくはないものの、やはり衝撃的だ。
 そう言えば、最近のマンガやアニメや日本映画では、各方面に配慮してか、核兵器が登場することさえ少なくなった(「N2爆薬」とか「MHD電池」とか架空のガジェットに置き換えることが多い)。今の子供は核の恐ろしさを知らずに育つのではなかろうか?

 さて、『エリート』が素晴らしいのは、アイデアとテーマとプロットが一致していることだ。
 平凡な作家なら、このマンガを勧善懲悪のヒーローものにしてしまっていただろう。確かに竜太郎とダンガーの、知力と体力を駆使した戦いは面白い。だが、単にダンガーだけを悪の根源として描くのでは、テーマ的には間違いである。なぜなら、アルゴールが糾弾しているのは人類全体の悪だからだ。
 この作品が描かれた頃は、ベトナム戦争の真っ最中。アルゴールは竜太郎をベトナムにテレポートさせ、人間同士が殺し合い、赤ん坊まで殺されている恐ろしい現実を見せつける。

「なぜ地球人は、人間どうしにくみあい、殺しあうのか。つみもない子どもまでまきぞえにしてしまっても平気なほど、戦争がすきなのか。人をにくみ、殺しあうことがすきなのか。地球人のひとりとしてこたえてみよ!」
「ち、ちがいます」
「それではこのありさまは何ごとだ。地球人がそれほど凶暴で下等な生物ならば宇宙に用はないっ。ほろぼすまでだ」

 このストレートなメッセージ性! これこそ最近の少年マンガにはめったにないものではないだろうか。作者の都合で語られる中身のない演説ではない。平井氏が自分の生の想いを叩きつけてきている。

 当然、凶暴な悪の心は竜太郎の中にもある。
 CIAが竜太郎の秘密を嗅ぎつけた。CIAの秘密工作員タックは、竜太郎の両親を誘拐する。
 両親は竜太郎の秘密を何も知らない。しかし、タックの上司のドランケ大佐は、両親を洗脳機にかけ、秘密をしゃべらせようとする。「さいみん機にかけると気がくるうおそれがありますっ」と抗議するタック。大佐はそれを無視する。

「これは洗脳機だ。ごうもんにかけてるわけじゃないぞっ。
 ごうもんというのは、つめをはいだり火でやいたりすることだ!!
 わしは、そんなことはしておらん」

 ブラックユーモアを感じさせる台詞。好きです。
 案の定、洗脳は失敗。ようやく救出に来た竜太郎が目にしたのは、発狂してしまった両親の姿だった!

「くるっているっ! あああーっ! ふたりとも気がくるってしまっているっ!!」

 怒りに燃える竜太郎は、両親の仇を討つために大暴れをはじめる。一方、無実の人を狂わせてしまったことを後悔したタックは、罪の意識にかられ、おとなしく竜太郎に討たれようと決意する。
 しかし、タックのそばにいた女性超能力者ローリアが、竜太郎が近づいてきたとたん、苦しがって倒れてしまった。竜太郎のすさまじい怒りの心をテレパシーで感じてしまい、敏感な神経を破壊されて狂ってしまったのだ。自分のしでかしたことに呆然となる竜太郎。
 ここでもまた、タックの口を借りて、平井節が炸裂する。

「なんてばかげているんだ!! なんてばかげているんだ!!
 だれもかれもがおかしくなってしまう……。
 世の中がくるっているからだ。人間どうしがたたかい、にくみあったり、ころしあったりするだけの理由があるというのかっ。
 こんどの事件もそうだ。エリートのきみを手に入れるために、われわれのやったこと……よその国にとられまいとしてひっしになってやったこと…………。
 なんのためだ!! きみを手にいれれば、その国は軍事てきに強大になる。
 つまり戦争に勝つためだ。
 気がくるっているとしかおもえないっ!」

 近年、「狂う」という言葉にみんなが敏感になり、使われなくなってきている。角川書店の場合、「狂」という文字すべてに校正でチェックが入る。「熱狂的」「狂信的」「狂騒」「荒れ狂う」といった言葉すべてがチェックされるんである。信じられます?
 しかし、世の中には「狂」という言葉を使うしか訴えられないことがある。上の台詞を「くるっている」という言葉を使わず、同じニュアンスで、同じぐらいインパクトのある文章に書き換えられるかどうか、やってみるがいい。
 ここは「くるっている」でないとだめなのだ。

 科学者スパイラル博士に不意をつかれ、倒されて戦闘服を脱がされる竜太郎。しかし、電子頭脳を有するロボットである戦闘服は、竜太郎の「あばれろ……あばれろっ」「なにもかもぶちこわしてしまえっ」という音声による命令に従って、空っぽのまま勝手に動き出し、手当たりしだいに破壊を開始する。竜太郎が気を失ったため、戦闘服を止めることは誰にもできない。
 竜太郎の怒りと憎悪がのりうつったように暴れ続ける戦闘服。ついには駆けつけた警官隊さえも虐殺しはじめる……。
 この他にも、随所に出てくる衝撃的な展開。単なる娯楽のための残酷描写ではない。人間の内なる残酷性を描くために、必然的に描かねばならないことだ。それを逃げることなく真正面から描く平井・桑田コンビ、その真摯さに感服する。

 とは言っても、重いテーマ性のみの作品ではない。戦闘服の機能を最大限に活用したアクションは、今見ても十分に楽しめる。そう言えば最近のマンガのバトルは、拳法ものや霊能力系のバトルばかりで、こういうSF的メカによる戦いというのも、あまりないな。やっても面白いと思うんだけど。
 萌え要素もあるぞ。竜太郎のガールフレンドのジュディちゃんだ。特に後半、ダンガーに洗脳されかけたせいで、性格が男っぽく変わってからが最高! 自ら戦闘服を着てダンガーに立ち向かったりするかっこよさ。前半のおしとやかさとのギャップが、もう萌え萌えっすよ。

 ああ、それなのに、それなのに。

 ぶっちゃけてしまおう。このマンガ、打ち切りなのだ。それまでの伏線をみんな放り出して、いきなり終わってしまうのである。おいおい、そりゃないよ。ここまで夢中にさせておいて。
『サブマリン707』の「アポロノーム編」とかもそうだけど、なまじ面白かっただけに、こういうのってがっくりきちゃうんだよねえ。

 ああ、完全な『エリート』が読みたい! 平井さんがこの話をどうやって終わらせるつもりだったか知りたい。『デスハンター』を『ゾンビーハンター』としてリメイクしたように、『エリート』の真の結末、書いてもらえませんかね。今からでも遅くないから。このテーマは現代でも通用すると思うんだけど。
 あるいは、僕が書いてもいいかも? と言うか、書きたい。アイデアだけ借りて、自己流にアレンジして……。

 と、考えていて、実はすでに書いていたことに気がついた(笑)。『詩羽のいる街』の中に出てくる架空のマンガ『戦場の魔法少女』だ。『エリート』の単行本を読んだのは『詩羽』の連載が終わった後なんで、影響を受けたはずはないんだけど、それにしても妙に似ている。主人公が目の前で両親を殺されて、ショックで大虐殺をはじめちゃうところとか。
 うーん、これはやっぱり、僕の発想の根底には平井さんの作風の影響があるってことなんだろうなあ。

 結末だけは不満が残るけど、いいマンガでした。平井さん、桑田さん、ありがとう。
  
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Posted by 山本弘 at 14:14Comments(2)マンガ

2008年06月19日

あなたの知らない児童ポルノの真実

 こんなページを作ってみた。

あなたの知らない児童ポルノの真実

 実はこういうページを作るべきだとは、何か月も前から思っていたのが、ついつい先延ばしにしていた。しかし、事態が急展開。このままではじきに児童ポルノ法改正案が通ってしまいそうな情勢だ。そこで未完成だが公開することにした。
 これからさらに、「性犯罪を犯すのはどんな奴なのか」「規制に賛成しているのはどんな人なのか」「言論の自由、思想の自由はどこまで認められるべきか」といった問題について、具体的なデータを示しながら書いてゆくつもりだ。

 それにしても、調べていてあらためて思い知ったのは、児童ポルノや児童ポルノ法についての基本的知識が欠如している人が実に多いということ。
 たとえば、規制推進を訴えている日本ユニセフ協会の広報部長にインタビューした人がいるのだが、

マンガ論争勃発のサイト

--いま、(現行法に含まれていないマンガ・アニメ・ゲームをはじめとする「子どもポルノ」が)問題になっているという認識ですが、その根拠としてはどのようなデータがあるのでしょうか。
中井さん:明確にはデータというよりも、アネクダートル・データ(註・逸話的、伝聞的なデータで、数値には出ないもの)です

--チャイルドポルノプロダクションアクトには、合憲判断は出ているのですか?
中井さん:そこまで踏み込んだ質問はしていません。
--すると、そういった日本製の漫画やアニメが関係していることを示す数字はお持ちではないのですか?
中井さん:はい。
--実際の判決文等はお持ちではない?
中井さん:ないですね。

--スウェーデンではどの法律によって取締りが行われているのですか?
中井さん:ごめんなさい。正確な物はわかりません。
--スウェーデン刑法では取締りの対象について「児童ポルノ写真」と明記されていることはご存じですか?
中井さん:いえ、知りません。

現状、お持ちの情報ですと「多くの国はそれを禁止しています」というのはミスリードになるのではないでしょうか?
中井さん:そうですね。

--具体的に、専門家とか漫画家と会合をもつ予定は?
中井さん:いまのところありません。


 何じゃそりゃあ!!
「ありません」「知りません」「わかりません」の連発。マンガの規制を訴えているのにマンガ家と会おうともしない。要するに、自分たちが規制を訴えている対象に対して、ろくに知らないし知ろうともしていないのである。

 しかし、規制賛成派ばかりを責めるわけにもいかない。反対派にも無知な人はいる。

 mixiのあるコミュで、児童ポルノ法が改正されたら焚書にされかねない作品を挙げるスレッドができた。
 たとえば竹宮惠子の名作『風と木の詩』などは、少年のセックス・シーンが何度も出てくるので、児童ポルノ法の規制が創作物にまで及んだ場合、「児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態」という児童ポルノの定義にひっかかるので、確実にアウトである。
 同様に、世間に氾濫しているBLもののマンガの多くも、セックス・シーンがあってキャラクターが18歳未満であればアウトである。業界は壊滅的な打撃を受けることは間違いない。ロリコンマンガだけが規制の対象になるかのように誤解している人もいるが、児童ポルノ法には男女の区別はないのだ。児童ポルノ法改正は、ロリコンだけではなく、腐女子のみなさんにとっても重大問題なのである。
 他にも、『クレヨンしんちゃん』は性器を過剰に露出しているからまずいだろうし、『BLACK LAGOON』のヘンゼルとグレーテルとかもまずかろう。

 そこまではいい。

 しかし、「焚書にされかねない作品」を書きこんでいる者の中には、明らかに児童ポルノ法で規制対象になるはずのない作品を列挙している者が何人もいたのだ。虐殺シーンがあるから『ガンダム』シリーズはアウトだとか、年下の少女との恋愛行為を容認しているから『月詠』や『リゼルマイン』はアウトだとか、ルパンや不二子が裸になるから『ルパン3世』はアウトだとか、少年がボクサーパンツ1枚で出てくるから『はじめの一歩』はアウトだとか……。
 あきれた。本当にあきれた。
 言うまでもないが、児童ポルノ法が規制対象とするのは18歳未満の児童の性表現のみである。いくらマンガの中に残虐描写が出てこようが、児童ポルノ法は適用されるわけがない(青少年社会環境対策基本法案あたりとごっちゃにしてないか?)。未成年者の恋愛が描かれていようと、具体的にセックス・シーンやそれに類する表現がないかぎり、ポルノと判定されるわけがない。ルパンと不二子は明らかに18歳以上だから関係ない。ボクシングについては言わずもがな。
 規制に反対する気持ちは分かる。しかし、行き過ぎて被害妄想に陥らないでいただきたい。ちゃんと児童ポルノ法の条文ぐらいは読もう。「何が規制対象になるのか」ということも把握しないで反対するんじゃ、無知なまま規制を叫ぶ連中を笑えないよ。
  


Posted by 山本弘 at 14:01Comments(1)事件

2008年06月12日

パラレルワールドの自分



 6月8日。
 宿泊していた新宿のホテルを10時にチェックアウトした後、遅い朝食を食べ、紀伊國屋で少し本をあさる。その後、CDを買うため秋葉原に到着したのが1時50分頃。 そうしたら、えらい騒ぎになっていた。
 最初は何か分からず、「交通事故でも起きたのか」と思っていたのだが、それにしては報道のヘリが飛び回っていたり、野次馬も多い。そのうち、妻から「今、秋葉原で通り魔が出たってニュースでやってるよ」というメールが届いた。 本屋に寄らずに秋葉原に直行していたら、事件に遭遇していたかもしれない。
 いや、僕が通り魔に刺し殺されていた世界も、きっとどこかにあるに違いない。

 SF作家ラリイ・ニーヴンの短編集『無常の月』(ハヤカワ文庫)の中に、「時は分かれて果てもなく」という短編が収録されている。
 パラレルワールドの存在が実証された世界で、原因不明の自殺や無差別殺人事件が続発する。事件を捜査していた刑事は、無数のパラレルワールドにはまったく別の人生を歩んでいる自分が大勢いるという事実が、自殺者や殺人者の心理に影響を与えているのではないかと思いつく……。
 想像していただきたい。パラレルワールドにはありとあらゆる可能性が存在する。たまたま買った宝くじで1等が当たってあなたが大金持ちになっている世界も、当然、どこかにあるはずだ。その一方、悲惨な人生を歩んでいるあなたも大勢いる。職にあぶれ一文無しになっているあなた。難病にかかってベッドで寝たきりになっているあなた。人生に絶望して自殺しているあなた。誰かに殺されているあなた。数々の体験を経て性格が歪み、ついには無差別殺人者になってしまったあなた……。
 不安にならないか?
「そんなことあるわけないじゃないか」と笑ってはいけない。現代物理学では、パラレルワールドが存在する可能性が高いとされている(興味がおありなら「エヴェレット 多世界解釈」で検索してみてほしい)。パラレルワールドが存在するなら、そうなる可能性がわずかでもあるかぎり、あなたが不幸のどん底にある世界、あなたが死んでいる世界、あなたが犯罪者になっている世界も、必ずどこかにあるはずなのだ。
 僕は子供の頃、パラレルワールドという概念を初めて知った時から、ずっとそれを考え続けてきた。
 この世界での僕は、小説家としてそこそこ成功している。愛する妻と子供がいて、けっこう幸せな人生である。ここまで登りつめたのは、才能もあったのだろうが、運の要素もあったことは否定できない。僕がデビューできず無名のフリーターのままの世界、結婚できず寂しい日陰の一生を送っていた世界は無数にあることだろう。中にはきっと、今この瞬間、僕が硫化水素で自殺している世界、僕が秋葉原で刃物を振り回して大勢の人を殺傷している世界もあるに違いない。
 だから僕は、秋葉原通り魔事件の犯人を憎みながらも、「自分と違う人種だ」という感覚は抱けない。僕も悪運が重なったうえに意志が弱かったら、ああなっていたかもしれないからだ。

 今回の事件では、例によって一部マスコミが、犯人の動機をゲームやアニメと関連づける報道をしている。中学時代の卒業アルバムに『テイルズオブデスティニー』のキャラクター(剣を持っている)が描かれていたとか、高校の文集の中に『エヴァンゲリオン』の綾波レイの台詞があったとか。
 アホか。
『エヴァンゲリオン』のファンは少なく見積もっても100万人はいる。ゲームに出てくる剣を持ったキャラクターの絵を描く中学生にしたって、日本中に何万人もいるだろう。そのうちの1人が無差別殺人をやったから、因果関係がある? そんなことを言う奴、頭がどうかしてないか?
 最近になって残虐な事件が増えたと思いこんでいる者も多い。それも間違いである。最近の事件だから記憶に残っているというだけのことだ。ゲームやテレビがまだ無かった昭和初期にも、現代と同様の、あるいは現代のそれを上回る猟奇的犯罪が頻発していたことは、管賀江留郎『戦前の少年犯罪』(築地書館)という本で、豊富なデータを挙げて立証されている。「最近の若者はキレやすい」などというのは大嘘なのだ。

 僕がいつも不思議に思うのは、残虐な事件が起きるたびに引き合いに出されるのがアニメやゲームだということだ。サスペンスドラマや時代劇やスポーツ中継が槍玉に挙げられることは、まずない。
 おかしくないか?
 サスペンスドラマの中では、人が刺されたり絞め殺されたり毒殺されたりするシーンがしょっちゅう出てくる。実物の人間が演じているのだから、アニメとは比べものにならないリアリティだ。
 時代劇では、毎回、主人公が刃物を振り回して、大勢の人間を斬り殺す。しかもそれが悪いことではなく、正しいこととして描かれている。
 ボクシングの中継は、人間同士が倒れるまで殴り合うところをえんえんと見せている。剣道は棒きれで頭や腹をどつき合う。フェンシングは剣で突き合う。レスリングやアメフトについては言わずもがな。
 にもかかわらず、そういうものは無害とみなされている。今年3月に茨城で起きた通り魔事件にしても、犯人がゲームの全国大会で準優勝したことが、事件と関係があるかのように報じられた(その「ゲーム」というのは『DOA』のビーチバレーだった)。その一方、犯人がかつて弓道部に所属していたことは、まったく問題にされなかった。弓はもともと人や獣を殺傷する道具である。いったい、ビーチバレーのゲームが弓矢より危険だと思う理由は何だ?

 反アニメ・反ゲーム論者が、サスペンスドラマや時代劇やスポーツ中継を危険視しない理由は簡単だ。それは彼らも見ているからだ。
 彼らは残虐な事件の報道に接するたびに、「こんなことをやる奴は俺とは違う人間だ」と思いこもうとする。そして、犯人がゲームやアニメが好きだったと報じられると、「それだ!」と飛びつく。犯人が異常になったのはゲームやアニメのせいだ。俺はそんなものを見ていない。だから正常だ……。
 そんなことはない。どんな人間だろうと、殺人鬼になる可能性はある。多くの人は「自分が通り魔に殺される可能性」は想像できても、「自分が通り魔になっていた可能性」は想像できない。いや、想像しようとしない。
 安易な「原因探し」など無意味である。サイコロを振って10回続けて1の目が出るという珍しい現象だって、6000万回に1回は起こる。「なぜ10回続けて1の目が出たのか」と問うことに意味はない。
 それと同じで、1億人の日本人の中には、不運や選択ミスが重なった末に人生のデッドエンドを迎えてしまう者が、必ず何人かいる。もちろんそれは犯罪への衝動に負けた本人が悪いのだが、こうした人間が現われるのは確率的にどうしようもないことなのだ。恐ろしいことだし、巻きこまれた被害者の方々は不幸だと思う。だが、いくら時代が変わっても、こうした悲惨な事件は必ず起きるだろう。

 反アニメ・反ゲーム論者が真に恐れているのは、殺人者ではなく、パラレルワールドのどこかにいる「殺人者になった自分」ではないかと思う。その可能性を否定したくて、殺人者と自分の相違点を必死に探そうとしているのではないか。
 犯人に同情しろとは言わないが、まず「犯人だって自分と同じ人間だ」と考えてほしい。自分だって殺人者になっていた可能性はあるのだと。
 それを認めることができず、ありもしない因果関係を信じるのは、それこそ現実逃避というものではないだろうか。
  


Posted by 山本弘 at 13:50Comments(3)事件